これはどこから炙り出されたリアルか~最高の離婚2014を巡って

「これはどこから炙り出されたリアルか~最高の離婚2014を巡って」

今回はドラマ「最高の離婚2014」についてです。
知らない人もいると思うから、まずはドラマの説明を。

「最高の離婚」は、2013年1月10日から3月21日までフジテレビの木曜10時枠で放送された連続ドラマです。
坂元裕二が脚本書き下ろした、中目黒を舞台に2組のアラサー夫婦の「リアル」を描いたラブコメディです。連ドラの時からかなりの熱狂的なファンを獲得し、特に劇中の夫婦と同世代の団解ジュニアぐらいの視聴者から、夫婦が抱えるリアルな悩みや生き方に多くの共感が寄せられたと耳にすることしばしばでした。
普段テレビというかドラマをあまり見ない中目に住んでる僕の友達も、自分の住んでる街が舞台ってこともあってだろうけど(意外とこういう要素はドラマ見続ける上で重要)楽しくみれたみたいで、久しぶりに友達とドラマの話が出来て嬉しかったという印象が残ってます。

そんな「最高の離婚」が1か月ほど前に2時間半ドラマとして一夜限りの復活を果たしました。
設定はドラマの終了から1年、現実と同じ時間にのって、最終回の1年後の2組の夫婦の「それから」を描く形でした。
このドラマを連ドラの時から説明するときりがないので、今回は前置きをそれくらいにして、ここからはドラマを観てる人にだけ分かるような感じになると思います。瑛太と尾野真千子と綾野剛と真木よう子が出てたあのドラマですよ。観ていない人はここでこれから展開される話が分からないでしょうが、今からでも「最高の離婚」を見る価値はあると思います。僕らも近い将来こんな問題に直面するでしょうから。ってか面白いし。

さて、本題に入っていきます。
まぁ、結論から言うとですね、「臼田あさ美復活祭」これに尽きますよ。あの夫婦たちに介入することとなった岡田義徳もそうですが、特に臼田あさ美が停滞しがちな空気を一掃し、ドタバタコメディに持ち込んだ一人勝ちのビッチ感しかないラヴアンドピースだった訳です。 これからの議論とこの結論は分断されてますが、こういう類の結論もあると思って頂ければ。

つまりここからが本題。
連ドラ含め最高の離婚の一番の見どころはまず間違いなく「会話」です。
坂元脚本のあの圧倒的なセリフの量と質。
話すことでそれぞれのキャラクターを作っていく。さらにその会話が物語を支えつつもリアルに寄り添う。
もちろん今回もここに異論はないのですが、僕は今回、坂元さんが思い描いていたものと受け手の間に、つまりこの作品を巡って作り手と受け手の間に「乖離」が生まれてしまったのではないかと考えました。
今書いた通り、あのドラマで特筆すべきところが「会話」だとすれば、その魅力というか人々を惹き付け最後まで楽しませてくれたのは圧倒的な「リアル感」つまり、アラサー夫婦の抱える等身大の幸せや悩みというところへの共感だったと思います。

僕は今回「最高の離婚2014」を見終った後に、坂元さんが本当にこのドラマでやりたかったのって、恐らく会話の力でその圧倒的な現実感(リアル)を半分ぐらいフィクションに転換して、それでも見えるものは何かということの提示だったのではと思いました。
つまりこのドラマの中では「会話」と「リアル」って共存しないのではないのかと。
しかし、結果としてあのドラマは多くの人に「会話(やりとり)のリアル」として、その2つがセットとして届いてしまった。僕はまずこの誤解を解きたいと思います。

もちろん「会話」が示すリアリズムも数多く差し込まれていて、時としてそのフレーズがインパクトを与える事があるのですが、ただ、客観的に分析するとあのドラマのリアルさというのは「会話」とは別にあり、それは「設定」だと思うのです。
中目黒の2DKに住みながら、お金の価値観や食生活、各登場人物の職場での振る舞いや、夫婦の距離のあり方、そして会話で物語が進んでいくその基礎としての2組の夫婦が置かれた環境、その緻密な「設定」にこそリアルが内包されている。
だから、ここでの「会話」というのはむしろ「フィクション」と親和性を保っているはずなんです。
それがもっとも端的に現れるのが、前半部分の光生(瑛太)と結夏(尾野)の会話で、
結夏が「子供が欲しい」
(これは会話的リアルもありますが、アラサー夫婦の典型的な問題で、同時に設定的なリアルでもある)と言うと、光生はその発言に持論を振りかざし、結論として
「僕らの子供がブラックホールに飲み込まれるのをあなたは見ていられるの?」
と答えます。
これは到底リアルとしてではなく、フィクションというか寧ろ2ちゃんのスレタイみたいなレベルの二次創作感すら漂い始める。これはある意味では現在的、ネット的なリアルなんだけど、その感触を果たしてアラサー夫婦は正確に捉えるほど進んでいるのかと思えてくるのです。つまり、このような特殊なリアリティを、アラサー夫婦がその筋(ツボ)で理解しているのかという疑問です。
恐らくそれはノーでしょう。

では、それでもなぜこのドラマでの「会話」はリアルだと誤解されていたのか。
それはここで扱われる「会話」が、実は「普遍」と結びついていたらかなのです。つまり 男女の普遍性です。
そして、僕はこのドラマのテーマを「この時代を生きるリアルな問題と、男女の普遍的な問題の綯い交ぜ」と仮定することができると考えました。それを似たような「設定」で生きる異なる2組の夫婦を使って、結果としてトータルパッケージで提出したことによって生じたのが、「会話のリアル」という誤った解釈だったのです。

ここまでをまとめると、このドラマの「会話」はアラサー夫婦のリアルだと理解されがちだが、結局いつの時代にもある男女の普遍的な領域を脱していないということです。
坂元さんが登場人物で唯一現実的な事をじゃべれる立場に置いた灯里(真木)のセリフを見てみると、
「抱けない女に、いつも近くにいていつでも抱けるような女が勝てる訳がない」
「女は男に完成を求め、完成された男を抱きしめたくなるが、男は女に未完成を求め、完成された女からは去っていく」
加えて、これは潮見さん(臼田)のセリフですが、
「女はね、一度許すと、その男の母親になってしまう。それから先はずっとその男に甘えられ続けるんだよ。ずっと許さなきゃいけなくなる。」
これらは、まさにいつの時代にも共通する男女の普遍性についての言及なんです。
つまり、 そこにはアラサー夫婦にしか共感できないような狭義のリアルは存在していない。
勿論、坂元さんも登場人物たちと同世代の夫婦に漂うリアルな空気という事をテーマに書いていると思いますが、それを坂元さんなりに書いた結果、案外普遍的な問題が浮かび上がってきたという面白さに気付いたというところがこのドラマの主題であって、つまり「リアリティとそこに付随した普遍の齟齬」こそがこのドラマが示した一つの回答なのです。

そのような見方を取ると面白い箇所がいくつも見つけられると思います。
光生と結夏の関係から浮かび上がる「理論的な男・感情的な女」
諒と灯里の関係から浮かび上がる「浮気する男・許す女」
それが今を切り取るような形でリアルを纏いながら示したのは、結局「普遍性」なんですよ。
光生か大吉出るまで何度もおみくじやるところとか、結夏が後先考えずにカシオペアに乗るところとか、実は光生と結夏の問題は、リアルな設定というものを律儀に守りつつも、普遍的な男女の感性というか価値観の違いであって、それに果敢に挑む訳です。
ここからはまた劇中の会話の引用ですが、
結夏が光生に対して 、
「何で全部言い返そうとするの?人の意見を聞く余白がないの?
あなたはね、他人の意見がどうでもいいか、自分の意見が正しいかのどちらかしかないんだよ」
という言葉と、それに対する光生の、
「僕はただ、自分の意見を言っているだけだよ」
というやり取りに、凄く現実味を感じて、でもこれって30代にしか共有できないリアルとは違う普遍的な男女の価値観の違いだよなと思うわけです。
また物語の途中で、光生と諒(綾野)・結夏と灯里が同性同士でカラオケに行くんですが、男2人が歌うのがイエモンの「バラ色の日々」で女2人が歌ってるのがモー娘。の「シャボン玉」なんですね。これも「リアルを纏いながらも夢想する男」と「意外と現実みてる女」という普遍の構図だったりする訳です。
ただ、そのどれもが凄く具体的で現実的だから自然とそれが個々人のリアルと結びつくようなるというのはとてもよくわかるし、これが坂元脚本というか、演出や俳優陣の演技含めて最高の離婚の真骨頂、無茶苦茶凄いところなんだけど。

ここまで具体例を挙げて、このドラマの「リアル」と「普遍」の齟齬というテーマについて説明してきましたが、もう少し俯瞰的に構造的なレベルの話をすると、坂元さん含めてこのドラマの製作陣は前述した「会話のリアル」という誤った受け取られ方をしないように工夫をしているということに気づかされるのです。

前半で説明してきた、「会話」と「リアル」の位置関係はパラレルなはずなのに、ラストで別れたほうが2人のためだと光生と結夏が話し合うトシーンや、みんなでカシオペア乗っちゃってここから舌戦が始まるという電車の通路で諒が通行人を気遣って「後ろ通りまーす」と言ったりするシーンなど「妙なリアル」によって歪みが生じ、その緩和的なリアルを含めてトータルパッケージで示すことで錯覚が生じる事になるのは容易に想像できますし、物語に感情移入すればするほどそれがリアルに寄り添ったように受け入れれるという効果もあると思います。
しかし、実は少し引いた目で見ると、あの寝台特急の食堂車のシーンなんて特にメタな視点から描いていることを象徴しているとしか考えれないのです。これは、前半のキャンプのシーンにも通じるところがあって、これらのシーンでは現実と虚構という狭間を喜劇的に描くという所に徹して、そこに何らかのリアリティが生み出せればいいという坂元さんの構造的な狙いがあるはずです。
少し込み入った話をすると、これは現実とフィクションのハイブリッドの過程についての言及で、フィクション側から現実を飲み込む形(例えばあまちゃん)とは違い、最高の離婚のメタ的な視点というのは、設定的な現実を会話というフィクションで拡張していく中で、生まれるものは何かいう構図を取っているのです。
ただ、結果として最後は2組の夫婦とも現普遍的でシビアで生々しい選択を迫られる。
そうなった時に、あのスティングを彷彿とさせた、またオリエント急行を思わせる(読んでないから絶対違うけど)食堂車での会話のシーンが、「会話のリアル」の否定という機能に大きく役立ったと同時に、結果リアルに肉薄していくまでの効果は得られなかったという事を露呈させたと言っても過言ではないと思います。
今回のこのスペシャル版では2組の夫婦のうち1組が別れることを選択しました。
これは続編の伏線と片づけることもできますが、僕はここに今回坂元さんが本当に書きたかった「会話の力でその圧倒的な現実感(リアル)を半分ぐらいフィクションに転換した」後に見えた結論だったと解釈できると思いました。
あそこまで緻密な設定でリアルを演出して人を引き付け、一見そのリアリティを補完する構成要素の一つとして使われている「会話」は実は普遍的なものであり、結果として夫婦の抱える問題を前にその「会話」(フィクション)は無力だった。もっと相性とか人間本来の性質的な相似というものこそが特殊な現代で夫婦としてやっていくには必要になる。そんな話であったように僕には感じました。

長々読んでくれた人がいるならば、感謝申し上げます。

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