僕の大好きな「TVドラマ」について、前のクールのおさらい(結果を残したもの)

やって参りました。季節の変わり目。
みなさん、フィクションと存分に戯れているでしょうか。

今回は、僕の大好きな「TVドラマ」について、前のクールのおさらい(結果を残したもの)について書いていきます。
そして数日後には、4月クール(ドラマによってはもう2話3話まで進んでいますが)の見どころ・展望などを書きたいと思います。
そうですね、前後編として2回にわたってというかたちになると思います。

さて早速ですが、まずは今回これから触れるドラマを書き出しておきます。
気になる(なった)ところだけ読んで下さい。
それではスタートです。

・前回のドラマのなかで取り上げるもの

「失恋ショコラティエ」
「S -最後の警官-」
「明日ママがいない」
「なぞの転校生」
「宮本武蔵」
「LEADERS」
最後の2つは2夜連続×2時間ドラマです。前回と今回の連ドラの間で放送されました。
キムタク版の宮本武蔵と佐藤浩市で豊田喜一郎の伝記をドラマ化したものです。

早速ですが、前回の連ドラで最後まで面白く見れたのは「なぞの転校生」の1つのみでした。
ただこんなのはよくあることで、沢山見ていく中でだんだん切っていくというのが「録画→タブレット持ち出し」的な今の時代の連ドラの楽しみ方の主流であると個人的には思っているので、今から取り上げる作品は「なぞの…」以外も、「残る」という部分に関しては長けていたと思います。
しかし「物語」には「終わり」の必然性があり、それが最後まで考えられた上で作られていたのが「なぞの…」とスペシャルドラマの「宮本武蔵」だったと思います。
あらすじとかは端折ります、見ている人が読んでいるという前提で、スタート。

 

「失恋ショコラティエ」
今や完全にトレンドとなっている小人物語ですね。
「小人」というのは評論家・宇野常寛が提案した概念です。
要は「白雪姫」に出てくる小人のように、いつになっても「姫」とは結びつかない存在、姫の周りをせっせかと動き回る存在の事を宇野氏は「小人」と称しています。(男女の逆転バージョンも然り)
姫には王子がいる訳です。もし王子とうまくいかなくても、姫は必ずまた他の王子と結ばれる訳です。
いくら姫に小人の中で一番に選ばれても、その小人は姫にとっての「一番の小人」という地位どまりで、小人は一生王子には昇格できないという、現代にありふれた恋愛の一傾向であるということらしいです。
この小人的世界について割と詳しい解説がありますので、気になる方は以下を参照ください。
http://matome.naver.jp/odai/2134638620817848701
ここ何年かの恋愛ドラマには、この「小人」という概念を絡めたものが非常に多く、去年の夏期で放送された月9のドラマ「サマーヌード」もその典型だったと思います。
勿論、今回も初回を見て、「はい、小人の話ですね。爽太はサエコさんとは一生付き合えません。それが世界の真実だから」なんて言いたくなるような感じだったのですが、結果として爽太は中盤あたりでで幻想ともとれますが一時の幸福は得れるようになっていて、それがこのドラマの面白いところだったと思います。
そしてその中盤から後半にかけてのシチュエーションをどう活かすかというのが、このドラマの課題であり腕の見せ所だったと思います。
それらを踏まえて、このドラマが面白かった点は、
①誰もが潜在的に抱える「小人」という性質を生活にまで還元させた
②石原さとみ演じるサエコさんという悪魔的なキャラクターが意外と女子にウケた(好意を持って消費された)
という2点だと思います。
前者の結論として、このドラマが提出したのが「M性」だったと思います。
「小人」=「ドM」というのは当たり前の事だけど、それを「気づけばなんか小人になってしまう」という意図しない悪循環という側面からではなく、小人的な性格の自分に妙な親近感が生まれている(客観的に捉えることによって性的快感というレベルで自覚する)つまり、爽太が小人としての地位を積極的に自己肯定しているというところに新しいリアルが発生していたと思います。
ドラマの1話で爽太がサエコさんに対して「もっと傷つけて欲しい、そうすれば僕は今以上に素晴らしい菓子が作れるから」という独白が挿入されるのですが、それを見ながら「小人」としてのメンタリティは今や生活に還元できるレベルで、つまり生きる上でのモチベーションとしてすら働き初めているのだなと思いました。
それは当たり前だろという事を言う人がいるかもしれませんが、これは全然当たり前じゃないです。
家族や恋人という関係が担保された存在に対する愛情というのがラブストーリーの前提の中、小人の姫に対する愛というのはその性質が全く異なり、即ちその全てが報われないわけです。
無償の愛とはよく言いますが、それはある種当人にとって都合のいい愛な訳です。
それにも気づかず(薄々気づいているのですが)踏み出せない小人が、その自称「愛」を自身の生きる糧に昇華させてしまっている、幾ばくかの拡大解釈が含まれていますがここが爽太の狂気だったと思います。
最初はそのような爽太の小人に甘んじる姿勢が気持ち悪かったのですが、次第にこの狂った思考にドラマがリアリティを植え付けます。
爽太にはエレナというセフレがいるんですが、ドラマではエレナとの身体的な繋がりよりも、サエコさんが爽太の作ったチョコレートを食べているシーンの方が性描写としてのリアルに描かれています。あのチョコレートに唇をつけるサエコさんのカットというのは紛れもなく爽太の主観的な眼差しで、それを晒される(公表される)ことにもあまり抵抗がないという流れに持ち込んでいくようなことが、その典型だと思います。
勿論キャラクターの立ち位置上そう描かざるを得ないという事もありますが、チョコレートを介した疑似的な性行で満たされているという爽太の歪な性癖みたいなものに、今の若者の恋愛的な傾向(リアリティ)があったと思うのですが、どうですかね。僕は若者研究者ではないですし、そもそも相対的に見れば僕も若者であって、とかそんな事に拘りたくなってくる年齢なのか…
次は、サエコさんというキャラクターですね。
かつてあのキャラは、階級階層意識が高い女子コミュニティでは1番に目の敵にされる存在であったはずです。しかし、なぜか今回はサエコさんに共感する若い女の子が多かったという記事をよく目にしました。
サエコさん肯定するってことは、渋谷にライオン放つのとそう変わらないですがね。
そこら辺の詳しい経緯は分かりませんが、今回はあのサエコさんというキャラクターに主観的にスポットを当ててみました。
僕はですね、最初イノセンスだと思って疑わなかった(自分が馬鹿だった)サエコさんが、どんどんダークヒロインとして墜ちていく(昇っていく)姿はこの物語の柱足り得たと思います。
7話ぐらいに爽太とサエコが向かい合うことで約束が発生し、二人の関係は一時的に担保されることになるんですが、僕はそのシーンを、主に石原さとみの力量において「男と女、月9の向かい合った時の女の眼差しシリーズ」に認定せざるをえないと思いました。(最近で言えばブザービートの北川景子以来だと記憶しています)
単純な恋愛ごっこを補う上で欠かせないあのシーンに、つまりあの時の石原さとみの表情だけで月9史には爪痕をのこせたのではないかと思います。
物語の終盤では、爽太に夢を見させた(と同時に自分もある種の夢を見ていた)中盤から終盤にかけてを、サエコさん自身が「幻想」と自己言及することで、爽太にとっての「小人の世界」が強烈にフラッシュバックします。意図も簡単に「別れ」を決断しまうことや、「爽太くんの子供じゃないよ」発言に客観性が伴っていると考えれるあたりに、サエコさんという存在のリアリティーが一気に押し寄せることになるのです。
その爽太の前に君臨するサエコというモンスターに最後どう立ち向かうのか、ここがこの物語が決着をつけないといけないところだったと思います。
つまり僕が考えるサエコさんと言うのは、恐ろしいまでの男の敵だったと思うわけです。
そういった中での最終回だったのですが、結果としてこのドラマはラストの描き方に失敗します。
このドラマでのラストは、大きく3タイプにカテゴライズされた女性が「それぞれ」の幸せを見つけるというものでした。そこに爽太という存在は何一つ連帯しておらず、爽太自身もサエコさん抜きで美味しいお菓子をつくれるようにとかいって海外に行く道を選ぶのですという終わり方でした。
それは、爽太が海外へ修行に行けばいい菓子作れるかもしれませんが、それって完全に「はじめてのおつかい」と何ら変わりない、安全が担保されたちょっとしたお買い物に過ぎないと思います。
このラストに何を持って来た時に物語が弾けるかという想像力が欲しかったなと思います。
最後に、この物語の3タイプの女子という事をテーマにした面白い記事を紹介して終わります。
http://news.netpoyo.jp/2014/03/4013
こういう二次創作がたくさん見受けられたあたりに、話題にはなった作品だったという感じはします。

 

「S -最後の警官-」
これはですね、僕は当初かなり期待してました。今回のクールでは演者も豪華で、しかもイケメン勢ぞろい。胃もたれするほどのこってり系イケメンのオンパレードで、内容なんて少々とか思ってみるアラサー女子とか多いと思ったのですが、あまり評判にもならず割とあっさりと「ドラマ版」は終わりました。
つまり、「ドラマ版」は、というのがこのドラマのミソなのです。
途中向井理演じる主人公が傷口に手を当てると良くなるという謎のファンタジー路線に突入し若干煙たくなりますが、その後にガッキー出たりして持ち直し最終回まではまぁまぁ良かったんですよね。
そうですね、最終回前の回を見終った後の自分のツイートを引用しておきます。

先週から男一色のドラマに紅一点ガッキーが狙撃手として出てきて、しばらく身を潜めていた大きな問題が動き出すにあたりでオダジョーも再びお目見えされた。
職場チームもののドラマって、尺の関係で一人一人のキャラに独自のストーリー付けてその個々人の抱える問題を解決することで1話分の枠を消費するという形が取られやすく、最終回間際で主人公の抱える問題に回帰し、キャラクターや背景を背負った(1話ずつ焦点を当てられたことで)周囲の仲間に支えられながらエンディングを迎えるというパターンがお決まりになってる。ただ、このドラマは割と一本のテーマがきちんと置かれている分、途中の数回が勿体なかった。
スケール的にも演者的にも、連ドラとはあまり相性がよくなかったんだと思う。
初めから三部作の映画とかでやってた方が商業的な成功はあったはず。
恐らくこの感じでいけば映画化ってのもあるだろうし、でもドラマ→映画ってのは未だにハードルの高い集客方法というか、コアなファンの熱は高いんだけど、これはドラマ→映画という路線ではやり尽されたテーマだし、その相性がどうしてもネックに感じる。
というか、映画の前にドラマ見て下さいというプロローグ的な連ドラの使い方ってどうかと思う。
つまり、あの豪華なキャスティングで、映画一本で勝負しても当たるという確信を持ちながらも、敢えてこれを連ドラとして放送したらなら、やっぱり現代風の勧善懲悪の世界などの過剰なまでの演出をして欲しかった。それは視聴者を置いていくぐらいの振り切った感じで。
具体的には、警察法や死刑制度、被疑者の人権とか、たぶん軸はここに置いてやってきたんだろうけど、連ドラの中でこのテーマをおとすのはちょっと至難の業だと思うけど。

ここまでですね。
着眼点としては良かったと思います。そうです、映画化されますからね。
僕はこれを書いた時まだ映画化は公表されてなかったと思うから、知らないわけです。
そして最終回は、見事と言って良いほど映画の土台というか伏線と呼ぶにも恥ずかしいくらいの演出がなされ、つまり連ドラの最終回で映画のプロモーションをしたわけです。
ずっと見てきてる連ドラでこんなきつい最終回は例を見ないってくらいでした。
最終してないですからね。振り出しにも戻ってない。ただ、映画行こうね的な。
この最終回によって、60分×10話ぐらいの壮大な映画トレーラーが出来上がっておしまいってことでした。
昨今では、映画化される連ドラも少なくないですが、こんな露骨なのは初めてです。がっかりでした。

 

「あしたママがいない」
このドラマは芦田愛菜さん演じる「ポスト」というあだ名が、赤ちゃんポストを運営している施設等にネガティブな印象を与えかねない、そこから子供のいじめの助長につながるなんてはなしでフィクションを寛容に受け取れない大人たちが騒いで、結果として物語を壊された「幻の作品」という形になってしましました。
この問題についてはここで確認下さい。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushim…/20140118-00031720/

社会問題をシビアでリアルな視点で扱うという作品は1つのクールに必ず1つは存在し、僕はこれも連ドラが果たしている社会的な役割だと思うのですが、今回はフィクションがとばっちりに屈するという屈辱的な結果を迎えてしまいました。
三上博史や鈴木砂羽、木村文乃など役者の演技も良かったのですが、なんといっても子役の中心の二人の共演というところには注目せざるを得ません。芦田愛菜さんと鈴木梨央さん、ともに圧巻の演技でした。
ただ、結果としてスポンサーが手を引き野島伸司のクレジットも消え、9話で打ち切りという事になってしまった事は非常に残念でした。
打ち切り決定によって脚本が大きく書き換えられ、ドラマが扱う社会問題とは別の部分で話題になってしまった分、物語としては何の求心力も持たなくなってしまったのですが、タイトル通り「明日ママがいない」事と、「明日こどもがいない」という問題は、「悲劇」として最後まで貫かれていたと思います。
しかし、そのテーマに肉薄するエネルギーの全ては役者の力量(愛菜さんを筆頭に)に頼られていて、もう少ししっかりした骨格のテーマ、貧困やシングルマザー・超格差社会などというワードを折り込んだものが見たかったです。
権力者やお年をめされた方たちにはもっと想像力を鍛えて欲しいなと思います。無理か。
友達が三浦翔平が演じる「ロッカー」という役の青年に感情移入してましたが、あれはルックスとルックス(三浦翔平とロッカー)のギャップとかなのか。それともルックスと中身(コミュ障外見と心のやさしさ)のギャップなのか。とにかくロッカーに大盛り上がりしてる友達がいました。

 

「なぞの転校生」
これはですね、テレ東の金曜深夜枠で岩井俊二が青春そしてSFものをやるっていう時点で、ほぼ成功は約束されていたんですね。
序盤から中盤もさることながら、結果として、今回のクールのドラマがこぞって失敗してきた物語の「終わり」に向き合い、それを見事な形で決着させたとても秀逸な作品でした。
1話で主人公の二人が川べりを歩くシーンから始まるですが、その青春のありのままを写したような瑞々しさや眩しさはいつまで経っても岩井俊二の専売特許だと思いました。それだけで浮ついた気持ちにさせてくれます。
原作もあってNHKで数十年前にドラマ化がされている作品なので、物語としても凄くしっかりしてました。
僕は学園ものが大好きな分、正直SF的な要素を排して、この主人公の2人を含めた仲間うちでの放課後のシーンがいつまでもいつまでも続けと思っていたのですが、そこは律儀に起承転結を守りながら、「起」で留まり続けることは赦されなくなっていきます。
パラレルワールドの話なのですが、物語が進むにつれ複雑な設定が次第に明らかになっていくような形で進行していきます。
僕は個人的に地球から来た異星人を迎える架空の星の側に視点を置いた話だとばかり思っていたのですが、最後の方で明らかにされるのは、どうやら世界も幾つかあるという事。
そして最終回で、そのうちの1つから大人になった主人公・広一と同個体(アイデンティカ)という形で高野浩幸氏演じる広一が出てきたあたりに、以前NHKで放送された時の高校生の広一を高野さんがやっていたという事からも、時空を超えた物語の1つの大きな繋がり(ループ)という演出が意図的になされていたんだと思いました。
ちなみにこの「アイデンティカ」という設定は以前のNHK版のドラマにはなかったらしく、これは完全に自分の可能性の体現であり「もしあの時違う選択をしていたら」という事で身体が作られているいるものであると解釈できます。その存在が暴くのは人間の本質であり、そのあたりの言及も見事だったと思います。
会話が意図的に削り取られ、後ろにショパンが流れる中でスローモーションで撮られるシーンや、むせかえるような色彩に置かれた主人公たちを見ていると、ここはどこなのだろうという問いが自然発生します。
そして最終回では、青春の刹那さ(切なさ)とSF的な規模の壮大さという相反する二つの要素が見事にマッチングします。
僕はここに去年劇場公開された高畑勲の「かぐや姫の物語」を重ね合わせ、日本で最初の物語も実はSFだったのかと、当たり前のようなことを気づかされました。
そして最後には1話での川べりを歩く主人公たちのシーンにループというか回帰し、これまでの話はあったのかなかったのか、そもそもここはどこなのかという事を意図的に問いかけて終わります。
ここにも、残された者に対する「かぐや姫的記憶」の切なさを感じる事ができると思います。
物語を面白くするというハードルはだんだん下がりつつある中で、「終わり」に向けてしっかりと1話ずつ話を進めていき連ドラとしてきちんと完結させるという当たり前ではあるけれでも明らかに難しくなってきている所を見事にクリアしたあたり、僕はいたく感動しました。
そして、このドラマで個人的に存在感を感じたのが杉咲花さんでした。
今夜行観覧車の再放送やってるので撮ってますが、この女優さんには今後期待ですね。

 

「宮本武蔵」
僕がずっと好きだと言い続けるキムタクの宮本武蔵です。
設定上キムタクが岡山弁というか僕が高校まで住んでいた時に話していた言葉に近い話し方や単語を使っている感動がまずありました。
内容はずばり、キムタクが武蔵の一生を演じる、とてもシンプルで分かりやすい物語だったと思います。
キムタク含めて、松田翔太や沢村一樹の長髪がみんな似合っていて良かったです。
僕がなぜこのドラマに好意を抱いたかというと、それは「キムタクのベタな魅力」とそれを引き出させた物語のシンプルさだったと思います。
最近のドラマの主人公のキャラクターは、影を抱えていたり複雑だったり現実離れした背景があったりというのが欠かせなくなってきていますが(キムタク自身もゼロ年代以降、総理大臣や脳科学者ホームレスやアンドロイドにまでさせられてしまって…)今回はシンプルに日本の元祖ヒーローを演じるという部分が功を奏したと思います。
また、物語のシンプルさについてですが、僕は今回の宮本武蔵に見たのは、大人気漫画「ワンピース」の設定です。ワンピースがここまで日本人を魅了するのは(キムタク自身もファンを公言している)まだ見ぬ広い世界には至るところ(行くところ行くところ)に強い奴がいて、冒険をする中でその相手に出会い戦い倒すことで自分の力がどんどん上がっていくという、極めてシンプルでゲーム的な構造にあると僕は思います。
ワンピースは世界一をテーマということで途中からついていけなくなる程設定が崩壊していて、客観的にみるとバカっぽさが凄いから僕も5年ぐらいもう読んでないですが(ファンの方がいたらすみません)、キムタクが演じる武蔵も、日本で一番の剣豪になるという所から関ヶ原という日本最大の合戦以降流浪の旅を続けて名の知れた剣豪と戦ってきたというあたり、間違いなくワンピースと同じ類の魅力があると思います。
寧ろ、宮本武蔵という強い主人公を据えた古くからの日本的な物語の手法の一つが上記に説明したシンプル且つゲーム的なものであって、ワンピースもそれに乗っかっていると考えた方が自然かもしれないですね。
物語にはお通という相思相愛の人物も出てくるのに結局最後まで二人は結ばれる事がなかったり(悲劇の恋)、剣の道を既に引退し隠居している老齢の剣士(西田敏行や武田鉄矢がやってました)に教えを乞う事で、自分では気づかなかった弱さに気づくというところ(日本的な年寄り敬おう精神全開)、最後の佐々木小次郎との決戦を前に今までお世話になった人たちに感謝を述べてから最後の決戦に向かうところ(関係と言うか繫がりの清算で全ての伏線を回収)、次は必ずこうなるってのが目に見えて分かるように物語がラストまで進んで行きます。
勿論殺陣のシーンとかもお金掛かってて迫力満載なんだけど、僕はあんまり時代劇とか見ないから(佐藤健のるろ剣の凄さぐらいしか分からない)そこの部分での魅力ってのはあまりピンときませんでした。
まぁただ何度も言いますが、僕がこのドラマの魅力は「ベタ回帰」であると思っていて、それを見事なまでに忠実に守り通した部分が、色々なものを背負わされたキムタクの一時の息継ぎにつながっていたという事が感じれたので良かったです。
「宮本武蔵」なんて使い古された物語で、新しい要素を生み出すのは大変ですが、今回は「エンタメ性」に徹し、キムタクを日本ドラマのしがらみから救ったという部分において、僕はこの作品が評価に値すると思います。

 

「LEADERS」
これはですね、トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎の物語です。
主演を佐藤浩市がやって他にも香川照之(武蔵にも出てたな)とか宮沢りえや山口智子や前田敦子が出演してて、最近はやりの経済ものということもあってかなり期待はしていたのですが、なんか入り込めなかったです。
僕なりに理由を考えた時に1つ思い当たる節があって、これに思いつかなかったら取り上げることもしてなかったと思いますが、それはずばり「名古屋」というキーワードです。
僕はSKEファンになってから主にその目的で年に何度かは名古屋に行ってるのですが、なんかいつも名古屋にはしっくりこないというか歪なイメージを感じるのです。
SKEも地元を拠点に活動してますし、そのファンの母体も愛知県というか名古屋周辺に多いということがあり、僕が何度も言っている48グループにおけるSKEの歪さと、日本という国における名古屋の歪さというのは何処か似たような部分があるのかもしれないというのは、漠然と考えていることでした。
愛知県立大学の准教授であり『日本人はなぜ存在するか』の著者としても有名な與那覇潤氏は、愛知に住んでから以降愛知のおかしな文化などをよくTwitter等で書いていますが(名古屋ディスとも呼ばれる)、どうやら名古屋という日本で3番目に大きな都市は、他の都市と比べて、ちょっとおかしな点があるみたいです。
その原因というか要因になっている一つが紛れもなく「トヨタ自動車」という事です。
先日年間の出荷台数が1000万台を超えたということが話題になり、今や日本のみならず海外においても存在感を発揮するトヨタですが、名古屋に本社を構えるその「トヨタ自動車」という一つの企業のみによってに日本で3番目に大きな都市・名古屋は成立していると言っても過言ではないです。
経済が云々と騒がれる今ですが、名古屋はトヨタの好調に支えられ今もかなり潤っているということをよく聞きます。
東京や大阪が地理的に離れたところで互いに地盤を固めているのに対して、割とどことも争ったり繋がる事もなく「対海外」というトヨタの恩恵をまるでそのまま映すようかのに独自に発展したのが名古屋という都市を語る上で外せない重要な要素だと思います。
その歪さそのものが僕がこのドラマに抱いた違和感とも繋がっているのかもしれないと思い、それだけを書くために今回取り上げてみました。
あっちゃん(前田敦子)は相変わらず微妙な演技でしたが、たまには連ドラに出たりして欲しいです。

今回はここらへんで。
次回は新ドラマ編。マジで今回のドラマ凄いことになってます!

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