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芥川賞選評

芥川賞選評 Posted on 2014年7月6日

さて今回は候補作を読み終わった芥川賞についての定期投稿です。

前回の第150回記念は、事前の高い評判を押し切って小山田浩子『穴』が受賞。
読む前はどうせ小山田だろうと思ってましたが、作品を丁寧に一つ一つ読んでいくと意外と他の候補作も良くできていて、山下澄人『コルバトントリ』なんかは受賞に肉薄するのでは(願望を込めてですが)なんて思っていました。
そんなことも含め、下馬評通りの結果になんとなく面白くなさを感じたのですが、だんだんと今の選考委員の傾向も顕れてきているのかなと思ったりしています。
今回は第151回になります。まずは候補作の紹介から。

戌井昭人     「どろにやいと」(群像1月号)

小林エリカ    「マダム・キュリーと朝食を」(すばる4月号)

柴崎友香     「春の庭」(文學界6月号)

羽田圭介     「メタモルフォシス」(新潮3月号)

横山悠太     「吾輩ハ猫ニナル」(群像6月号)

毎度おなじみの顔ぶれからちょっと意外な候補者、そして候補作が出揃う前から恐らく受賞が濃厚と純文学界隈でかなりに話題になっていた新人賞受賞者までといったところです。
前回明らかになったように、芥川賞の選評には下馬評の強さというものはどうしてもあります。
それに加えて、何回かに1度顕れる奇作とか怪作といった類の作品があって、これは取らせないといけないという潜在的な力が選考委員に妙なプレッシャーとなったりすることもあります。
最近で言えば朝吹真理子や黒田夏子などです。前回の小山田浩子もそれに当たらなくもないといったとこるでしょうか。
結果、そのように騒がれた殆どの作品はスムーズに受賞が決まっており、今回もそのような事を勘案すれば受賞作はほぼ決まりといっても過言ではないと思います。
しかし、敢えて今ここではそれを明かすことはせず個々の作品の解説を交えながら、然るところでその事にも言及していこうと思います。

作者のあいうえお順に文藝春秋のサイトには候補が発表されていて、上記の候補作はそれをそのままコピペしたので今回はこの順に一作ずつ触れていきます。

 

●戌井昭人『どろにやいと』
最初の頃は、劇作家が文学畑を荒らしてなんて思ってましたが、2011年の『ぴんぞろ』あたりから面白く読めるようになり、個人的に最高傑作であると思っている翌年『ひっ』辺りで受賞してもおかしくなかったのですが、あれよあれよと受賞を逃し、今回で5回目のノミネートとなります。

「わたし」の一人称小説。あまり正確には把握してませんが、なんとなく戌井さんの一人称小説は珍しいのではという直感がありました。(結局調べてないですが)
文章の「ですます調」と主人公が扱っている「お灸」さらには行商(顧客のいそうな地域を商品を運搬しながら販売する方法)で山間の村々を訪ねるという設定から、一昔前の話なのかなと錯覚させられますが、後に主人公が「近年ではネットの流通経路の発達もあり今回の行商を最後と考えている」という記述があり、実際には現代の話だということが分かります。
重複するところも含めてあらすじを書くと、主人公のわたしは、自らが開発した万能のお灸「天祐子霊草麻王」を全国各地を売って歩いた父の後を継ぎ、父の顧客リストを頼りに行商として訪れた最後の村「志目掛村(架空)」で起こった奇譚についてといったところです。
主人公が川崎から出発したという記述があるので、架空の村の設定が「リアルからフィクションへ」という構造を明確に示しています。その架空の志目掛村には牛月山・魚尾山・湯女根山と三つの霊山があり、それぞれ過去・現在・未来を表していて、この三山を参れば生まれ変わって新たな人生を歩めるという説明も初めの方に出てきます。

個人的には凄く良かったです。『ひっ』と並ぶかそれ以上の出来だと思います。
戌井さんが書く人間たちのどうしようもなさ故の愛くるしさや諸行無常な感じ、前半の設定を回収しながら雪だるま式に大きくなっていく物語の展開(それを可能にする村という閉鎖的な箱のつくり)や圧巻のラストに至るまで、計算されつくされている感じが伝わってきました。読後の爽快感もあり、一つの物語の中にきちんと起承転結が備えられている辺りにも正統派の純文学小説となっています。
ひとつだけ小説中の場面を挙げておくなら、圧巻のラストだと思います。
山中のお堂が燃え上がる中、殺人鬼と騙されたその妹によって臀部を包丁で刺されてしまった主人公がそれでも生きねばと思い、後ずさりながら足を滑らせ山の斜面を転げ落ち、その最中に轟くような地響きと共に起こった地滑りで迫ってくる煌々と燃え盛り崩れるお堂と大量の土砂。辛うじて生還した主人公が山が禿げたことによって最後に見たものはというようなところ。
ここら辺の描写は前半の設定を踏襲しながら、実に秀逸に描かれていたと思います。
僕は戌井さんの良さはある種の「フラットさ」だと思っています。緊張感を持ちつつそれが最後まで保たれるのですが、最後の地滑りで完全にそのフラットさが雪崩を起こし、そこから奇妙な希望が偶発的に生まれる。
『ひっ』の破綻のクライマックスにも似た事が言えると思いますが、改めてそのラストに気持ちの良さを感じました。僕なら自信を持って〇をつけます。

 

●小林エリカ『マダム・キュリーと朝食を』
申し訳ないですが、僕はこの方が候補に挙がるまで存在を知らなかったです。
Wiki見るとどうやら漫画家みたいで、小説を書くのは初めてのようです。
設定としては一人称の「わたし」と「私」の物語が入れ子のように続いていきます。
「わたし」は2011年の震災の年の夏に生まれた女の子で、彼女が話を語れる年齢まで成長していると考えると設定としては2020年~25年ぐらいといったところでしょうか。
一方「、私」で語る主人公の方は猫になります。人間たちが何もかもを明け渡し勝利を収めたというような記述があるので、これも現在とは考えにくく、少し先の未来の話だと思います。
それに加えて、回想として「わたし」と「私」の過去(父母、祖父母、曾祖父母)に話が及び、途中でムノンという18世紀の宮廷料理人が出版した料理についてのレシピが抜粋されたり、わたしの母が遺したICレコーダーに録音されたものについてのメモが挿入されていきます。
「私」と「わたし」が今を語る時だけ「ですます調」が使われ、回想がはじまると文体が普通のものに戻ったりするので、複雑な構成の割には現在どこの話がなされているのかというのは分かりやすく読むことができます。
テーマとしては震災における放射能の被害や今後それをどのように恢復していくかみたいなところで、それに関連して頻繁に抽象的な「光」という物語のテーマの核になるような言葉が使われていきます。
また放射能の歴史、つまりエジソンやキュリー夫人の事に始まり、放射線を使った現在日常でも使われるような物についての話(レントゲンや蛍光灯)や原爆や水爆の実験の事などについてといった、学術的な放射能についての話が資料のように物語の一部分として丁寧に織り込まれています。
どうやらこの方、漫画でも同じようなテーマで(放射能の歴史)作品を出しているらしく、今回はそれを小説として作り直したというものなのかもしれません。詳しくは分かりませんが。

上記のように扱っているテーマはかなりヘビーなものなのですが、「私」に猫の視点を採用する辺りや、夜になって人間の家に忍びこみ猫が料理を作るという描写、猫の私の祖母がアメリカに住んでいたという事で遠く離れた場所の地名がたくさん聞かれる辺り、とてもファンシーでメルヘンな印象が物語に漂っていると感じることができます。
これが僕とは合わずに、芥川賞の候補作としては250枚というかなり長い方の作品だったのですが途中から若干読むのが辛かったです。
単純に個人的な好き嫌いの問題にしか過ぎず、このメルヘンな感じも作者からしたら全く意識してないと言われれば、僕のジェンダー感覚の問題と言わざるを得ないんですが、こればっかりはどうしようもないと言うか、相性が良くなかったです。
様々な要素や時代の話を組み込みながら、ここまでわかりやすく物語を進めていくあたりには最初の小説としては素晴らしいと思いますし、たびたび出てくる「光」がラジウムということが読んでいくと分かります。(実際はそれを越えた隠喩としての何かなんですけど)
また「旧世界から新世界へ手渡された光」といって、僕らがこれから震災以後をどうやって生きていくのかみたいな事を投げかけているあたりに批評性を感じますが、そのような事を含めて個人的にはそれほどまで饒舌に語りたいと思わせてくれるような作品ではなかったかなと思います。
もっと丁寧に読まなければいけない小説だったと思いますが、それは好きな人に存分にやってもらえればと思いました。

 

●柴崎友香『春の庭』
今回の候補者の中では最も名の知れている方だと思います。候補になったのは4回目で、10年以来なので4年ぶりと案外久しぶり。リアリズムに徹していながら、毎度「はて」となりがちな難解な小説を書き、個人的には苦手ですが一定程度の熱狂的なファンがいる作家だと思います。
今回は割と読みやすかったです。三人称で、主な主人公は30過ぎの太郎という男性。
閑静な住宅街に佇む2階建てのアパートに住む太郎とそのアパートの住人たち、アパートと同じ区画に立つ時代を感じる水色の洋館ふうの一軒家を巡る話になっています。
こう書くと、一見そこに住む「人」と「人」との話なのだろうと想像されるでしょうが、実は派手なこの水色の建物を巡ってという話であり、太郎の後に越してきたアパートの住人の一人である漫画家の西(女性)が、どうやらこの建物に魅了されていて、どうやって外装だけでなく中の様子を伺うかというように物語は進行していきます。
描写的にも家の間取りの構成や配置、建築の様式美みたいな部分に多くが割かれており、読んでいてある種理系的な美意識を感じることができます。
太郎がメインで物語が語られていくのですが、太郎と西が居酒屋に行き、過去に西がこの洋館ふうの建物をある写真集で見てそれ以来ずっと忘れられないというような事が明かされ、それを建てた夫婦の話や建てられた時代背景の説明では、西の力強い主体性を感じます。
クライマックスの少し前ではその建物の住人と仲良くなった西と太郎が建物に招かれ、そこでひと悶着あったりするのですが、それを含めて面白く読むことが出来ました。
僕は恐らくこの小説は「構造(プラットフォーム)」と「内容(コンテンツ)」の関係に言及した小説なのではと思っています。
例えば、変わらない構造(建築)と対比で描かれる、変わってしまう内容(間取りや住人)というようなこと。
その反面、作品からの引用ですが、
「一つ一つの建物にはそれを建てた人の理想なり願望なりがあったのだろうが、街全体としてはまとまりも方向性もなく、それぞれの思いつきや場当たり的な事情が集積し、さらにその細部がばらばらに成長していった結果がこの風景なのだ」
という記述もあり、その関係性については一概には言えないが、構造と内容についてのメタ的な視点での小説なのかなと解釈できると思います。
ラスト10ページぐらいで突如今まで太郎の口から僅かにしか語られていない太郎の姉の一人称という物凄く奇妙で、何でこうなった(前述したような毎度の「はて」)という事態が起こって物語はよく分からなく綴じられますが(これも小説という構造を維持しつつも、内容である人称を変えるというメタファーなのか…)全体を通してはすっきりとまとまった綺麗な小説だと思います。
ただ、余談ですが最近僕はウェス・アンダーソンという映画監督にはまっており、彼の撮る呑み込まれるような構造美や色彩美、計算され尽くした画角の美しさに比べると、小説というものでそれを表現しようとするとどうしても限界があるなと感じてしまうという事は言わざるを得ないです。

 

●羽田圭介『メタモルフォシス』
羽田さん若いですよね。僕と2年ぐらいしか年齢違わない。今回3回目のノミネート。
何となくリア充というイメージがあり、2作ぐらい読んだことあったはずですが、まるで印象に残っていませんでした。
三人称で、主な登場人物はサトウという男性。昼は東京の大手証券会社に勤めるエリートだが、裏の顔を持ち、それは極度のマゾヒストということ。
SMクラブに通い、主にその夜の空間における人間関係についての物語です。
SMクラブ仲間の一人が死体で発見されたところから物語は始まり、彼の死因を巡っての(自殺か他殺か)話と人間の内なる欲望についてといったところでしょう。
SMクラブにおける描写が物凄くリアルで沢山取材されて書かれたんだろうなという事が伝わってきます。
その異常な描写の凄みを持ってして描きたかったのが、慣習や集団心理へのアンチテーゼといったところでしょう。
慣習や心理を本能や正常行為と思い込むおかしさや、それを作り上げる装置としての現代社会を痛烈に批判しつつも、生死という難しい問題にまでアプローチが及んでいる。
メインのテーマを熱を持って描きつつも、かなり射程が離れたところから生死の問題を描き出している辺りに作家の力量を感じました。
が、個人的には後になって考えてみると今回の作品もあまり印象に残るような作品ではない気がします。

とここまで、4作続けて取り上げましたが、ラストはお待ちかね、横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』です。
冒頭に書いたほぼ受賞決定というのはこの作品なのですが、なんせ難しい。
時空を飛び越えたり、視点が次々に憑依したりといったアクロバティックな小説ではなく、寧ろ普通に読めるリアリズム小説なのですが、僕個人の力としてこの作品の魅力を伝える事がまだできないと思っています。
漱石の『吾輩は猫である』や中国文学と密接な関係があるので取り敢えず魯迅の『阿Q正伝』『狂人日記』など色々と読んでみたのですが、まだピンとこない。
なので、この作品についてはまた後日どこかで触れようと思います。悔しい。

という事で最後に今回の予想を。
◎横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』
〇戌井昭人『どろにやいと』
▲柴崎友香『春の庭』
って感じです。