【2014年】4月期 ドラマ時評 各論②

4月クール連ドラ、その3『セーラーゾンビ』についてです。
相当長くなってます。
ゾンビと天使の強烈な二項対立が示すものは!

数多の佳作を抑えてなぜこの作品良かったかというと、きちんと現代社会の問題を捉えていたからです。端的に言えばアイドルと現代社会の関係性についての批評として機能していたということです。
今や「アイドル」は現代社会を語るうえで軽視することが出来ない存在だと思います。
この作品の主演3人(大和田南那・川栄李奈・高橋朱里)がAKBだったというところから、主観的な判断が先行していると思われても仕方がないのですが、僕は恐らくこの作品にAKBが出ていなくても変わらぬ評価をしていたと思います。
勿論、初めは大和田主演ということが大きな魅力となっていたのは事実ですが。
しかし、この作品を通じて提示された世界は、物凄く現実的で恐ろしい且つそれがハッピーエンドに見えてしまう歪んだ現代社会有り様そのものだったと思います。
そういった意味でも、当作はアイドルをテーマの一つとして掲げた「あまちゃん」でクドカンが果敢にチャレンジするも不完全燃焼に終わった「アイドルと現代社会の関係性」について、見事なまでにクリアな回答を示したと言えるはずです。
その辺り含めじっくり解説していきたいと思います。
まず、ゾンビものをAKBがやるという事が決まった時に、今まで敬遠気味だった「ゾンビ」というジャンルに向き合うことから始めました。
ドラマが始まった当初読んでいた本に立て続けに「ゾンビ」のことが書かれていたり、米・国防総省がゾンビ襲来という事態に対処する作戦の訓練用の資料を作成していたことが明らかになったというニュースが報道されたり(ソース5月24日の読売新聞)、妙なタイミングでゾンビというワードを目にすることが多くなり、ゾンビ映画のバイブルA・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」や「地球最後の男」などを見ました。
すると、ゾンビというカテゴリーは固定のファンによる根強い人気と、厳守すべき確固たるルールが存在する事がよく分かります。
例えば、ゾンビに噛まれると自分もゾンビになるとか、ゾンビは走ってはいけないとか、殺すには脳を潰すとか、ゾンビの蔓延る世界は元の世界には戻りえないとか、ゾンビは常に何かのメタファーでなければならないとか。
軽く挙げるだけでこれだけの制約がある中、60年代後半から社会へ進出するようになったゾンビをモチーフとした作品は、この規律の殆ど守りながら今日まで制作され続けています。
そして今回の「セーラーゾンビ」についてです。
このドラマの見どころは、ゾンビものとして如何に既存の設定を踏襲しつつ、現代社会の諸問題を浮き彫りにできるかというところだったと思います。
また、脚本・演出が犬童一心というところも見逃せません。
「ジョゼ~」や「メゾンドヒミコ」に見られる「ユートピア」と「ディストピア」の関係性をいかに現代社会とアイドルの関係性に引き込むことができるかというところも注目でした。
監督がドラマが始まる前にとある雑誌のインタビューで、女子高生たちの世界観を描くにあたり石川寛監督の「ペダルダンス」について言及していました。
記憶が朧げなのですが確か、
「実際は見てないんだけど(笑)スタッフとかと「ペダルダンス」みたくしたいねとはよく話している、いや全然見てないんだけどね(笑)」
といった感じだった気がします。
僕はこれを期に「ペダルダンス」も再見しましたが、今回のドラマと比較してみてもなるほど特に前半は〝みたい〟ではなく、ペダルダンスと酷似する雰囲気(言い方は悪いがまがい物感)を感じることができました。
「ペダルダンス」はトラウマを抱え陰鬱とした女性4人の繋がりや日常をほぼ台本なしに長回しで無機的に撮った映画なんですが、その雰囲気などは完成度がかなり落ちますが(勿論完成されてたら逆に良くなかった)「セーラーゾンビ」にも通じるところがあったなと思います。
「ペダルダンス」の話を続けますが、あの映画って中国粥みたいな話だなと思うんです。
視覚的に体に良さそうで無害な感じなんだけど、白くイノセンスな中に得体の知れない香草や赤い実が入ってるイメージです。
その無害で胃腸に優しそうな部分とアクの強い部分とが共存していたという事実が次第に判明していくという構造も「ペダルダンス」と「セーラーゾンビ」には共通してあった気がしてます。
さてここまで長く書いてきましたが、ここから漸く本題です。
あらすじを簡単に説明すると、各回ドラマの冒頭でもアナウンスがあるように、ゾンビが溢れる終末世界に奇しくも図太く生き残ってしまった女子高生の物語というところです。
世界がゾンビだらけになって2か月後から物語はスタートします。
最初の舞台は女子高の校内で、校内まではゾンビが入って来れないという設定から、学校で寝泊まりする30人ほどの女子高生とその先生・生き残ったご近所さんたちとの学校内での共同生活が描かれていきます。
窓やドアなど壁一枚を隔てた外の世界にはゾンビが溢れかえっている中で、学校内だけは終末以前のそれと対して変化はなく、主人公たちは適度な緊張感を持ちつつも呑気に生活を送っています。
この設定から、外のディストピア感と内のユートピア感が壁一枚を隔てて一つの世界の中に混在しているという構図が明確に示されます。
特に前半部分では、ゆるい音楽と共に校内のユートピアな関係の描写が目立ち、終末に及んでまで緩やかな生に執着する女子高生の図太さは、アイドル群雄割拠の時代における彼女たちの立ち振る舞いと重ね合わせることが出来ます。
物語が進むにつれて校内も安全ではなくなってしまったり、身内の中に人間を装ったゾンビがいるのではという噂が広がり「ゾンビ裁判」なるものが開廷したりと、既存のゾンビものを踏襲したシビアな展開へと向かっていくのですが、それでも尚終末世界にそぐわない居心地の良さそうな感じ(黄泉という終末以後のメタファーとも取れる)と現実のアイドル現場に漂う緩やかな幸福感、終わらない日常感は見事にシンクロします。
この緩さというのは絶対的な安全であるという前提によって成立するものであり、これはかつてのアイドルとファンや社会との距離感とも見て取れます。
透明なガラス越しに見えるアイドルはまさに本物であるんだけど、そこには見えないながらも確実に物質的隔たりがあるといったあたりです。
奇しくも、このドラマの放送期間中にAKBの握手会で凄惨な事件が起こってしまい、怪我を負った川栄が出演していたこともあって放送が延期される事態となり、打ち切りという噂も上がりました。
アイドル出身の小泉今日子がとあるテレビ番組でこの事件に触れ、昔もアイドルのコンサートでファンが壇上に上がってきたり物を投げつけられたりしたことは多々あったと話をしています。
それでもかつてのアイドルは今のアイドルほどファンとの接触の機会は多くなかったと思います。
そういった意味でも、ガラス一枚でも隔てているからそこの安心安全、健全なファンとの距離感という80年代からAKBが現れる以前のアイドルとファンとの位置関係と重なっていきます。
ここまで説明してきて気づいた方もいると思いますが、僕は今回のゾンビというのは間違いなくアイドルファンのメタファーであると思います。批評家の宇野常寛はそれを否定した上で、このゾンビは広義の意味での現代人のメタファーだと言っていましたが、僕は今回のゾンビの描き方はもっと限定的で核心を突いたものだと考えます。
その理由については、まず主人公の舞子がアイドルを目指しているというところです。
ただ漠然と終末世界を生き延びる事が描かれるのではなく、ぼんやりとではあるけれどもアイドルを目指すという夢を持ち、そして初回には「まさか私がゾンビたちのアイドルになるとは、この時は思いもしなかった」などの説明が入ります。
このドラマでのゾンビが現代人全般に当てはまるならこのような前置きは要らないし、特に終末世界に及んでまでユートピアの世界が存在するという極端な対比も、アイドルと現代社会やファンとの関係性にフォーカスした引用であると思うからです。
この設定について少し補足をしておくと、ゾンビ世界(終末)の「ディストピア」とアイドルの日常を切り取った「ユートピア」の共存は、まさに現代社会のアイドルブームの構図そのものだと言えます。
下降の一途を辿りもはや期待が持てない現代社会で、まがい物と見えるかもしれないが希望の光を灯しつづけるアイドルとそれに賭けるファンの世界という異なる二つの世界がこれを象徴しています。
前述したとおり、「あまちゃん」がアイドルと社会というテーマで作られた時も、実はこの二つの世界は対比されました。しかし、「あまちゃん」ではそれをユートピアとディストピアという二分法ではなく、現実と虚構という極端な世界で描きました。東京という現実と北三陸という虚構。勿論震災という他方の大きなテーマがあったため、北三陸=虚構という構図は単純には語れないのですが、アイドルというテーマにフォーカスすれば強ちこれは間違っていない舞台の分け方だったと思います。。
つまり「あまちゃん」が描いたアイドルの世界と現代社会には圧倒的とも言える〝土地的〟断絶があったのです。
それを今回のセーラーゾンビはガラス一枚の極めて脆い構図で二分する形に置き換え、しかも後半ではその壁さえも意味をなさなくなっていきます。
これの設定が崩れていくあたりにも、かつての偶像的な存在としてのアイドルとファンとの健全な距離が保たれていたところから、AKB以後の現代接触系アイドルにおけるファンとの交流ありきのプラットフォームへの変容を見ることができます。
つまり、この「セーラーゾンビ」という作品は、「日本のアイドル史」の変容そのものを物語に流し込むというチャレンジをしていたと言っても過言ではないのです。
ただ、「あまちゃん」のところで触れた「震災」というテーマの影響を当作も少なからず受けて(しまって)おり、震災以降の終末世界を描いた作品の多くがその後の世界のメタファーを背負わざるを得ないという問題もはっきりと浮かび上がります。
何度も言いますが、その震災以後の強烈なディストピア感と、アイドルが醸成するユートピア感が一つの世界に渾然一体となってくるというタイムリーな構造こそ、このドラマの最も優れた部分なのでしょう。
その一つの物語の中に共存する二つの世界観は、快感と疎外感などといったように女子高生たちの内面にも投影されていたと解釈できます。
そして作品のラストでは、決定的にゾンビのメタファーがファンであることが示されます。
校内に住めなくなった主人公たちは、ゾンビがいる外の世界を転々としつつ、その間に仲間たちも次第にゾンビの餌食になっていきます。
そして、ついに三人にまでなった彼女たちが偶然(アイドルと運の関係への言及)たどり着く世界があります。
そこはとある街外れの遊園地なんですが、そこではゾンビが特定の音楽によって完全に管理されています。
そして、遊園地の管理者によってゾンビが溢れる世界になった経緯が語られるのですが、主人公たちにとってはそんな事(現代アイドルのプラットフォーム形成の過程)などはどうでもよく、目の前のケーキ(叶えたい夢)を必至になって頬張ります。
管理者に一人一人夢を聞かれた主人公たちがその夢について語ると、彼はこの秩序が保たれた〝新世界〟で生きるのと引き換えに「夢を捨てろ」と主人公たちに迫ります。
結局主人公たちはそれを拒み、夢と引き換えにエンドレスでかかる音楽を自分たちの手で断ち切り、新世界の秩序を壊してしまいます。
そうなると必然的に管理者や遊園地で生きる人間などは次々とゾンビの餌食になっていくのですが、辛うじ逃げることが出来た主人公たちは最後その遊園地の舞台で、自作のアイドルソングを歌うことになります。
勿論観客はゾンビだけで、主人公たちはそのゾンビに向って「ノッてるかーい?」と投げかけ演奏を始めるのです。
するとゾンビたちはまたぴたっと人を襲うのを止めます。
ゾンビを統率していた音楽と主人公たちの作ったアイドルソングのコード進行が同じだったためそのような事が起こったという事でした。
そして、
「舞子よかったね。夢かなったじゃん」
「お客さん、ゾンビだけど」
「そんなの関係ない、みんなノリノリじゃん」
「ってか、もしかしてこれ止められないの?」
「止めたらゾンビに襲われる…」
「うそだろーあーもう疲れただめかも」
「私は大丈夫、いくらでも歌えるから」
というシーンの後に、
「歌いながら夢を見ていた、みんなが私を待っているそんな新しい世界を。」
というナレーションにかぶせるように、ゾンビに追われながら生活していた時に未来の自分に宛て録音したビデオカメラのメッセージが流れ、
「夢をあきらめていない未来のあなたが私の支えです」という感じで物語はエンディングを迎えます。
ここまで見ると、この作品がいかに緻密に計算されたアイドルと現代社会の関係性について言及していたかということが窺えます。
自分たちが歌い踊り続けない限り次の瞬間にはゾンビに喰われてしまうという描写は極端だなと思いつつも、自分たちの夢を実現するには一回一回のファンと触れ合い・コミュニケーションを大切にする必要があるという事そのものだし、そこまでしても叶えたい夢があるというのが、絶望の日本社会で人々がアイドルに惹かれる所以であるという的確なメッセージになっていたと思います。
希望を持ってる若者がいないという訳では無いけれど、日本の現状を考えると冒険出来なかったり夢を追うより無難に生きたいと願う若者が圧倒的に多くなっていることは事実です。
その先行きが見えない不安な世の中で、アイドルは夢を求めて生きている稀な存在だと思います。
例えファンがオタク(ゾンビ)ばかりでも、その先の自己実現のため諦めず前を向いて生きていく、そんなアイドルの必至さゆえの滑稽な姿勢を軽視する人や理解できない人は多いでしょう。
ただ、物語というのは希望や絶望にこそ宿るもので、例え大きくなくてもミクロで細分化された物語は現代社会を生きる上でのヒントを沢山提示してくれると僕は思っています。
そういった意味でも、ただのアイドルドラマとして片づけれない非常に批評性に富んだ作品だったと僕は思っています。

さて明日は、4月クール2位「プラトニック」についてです。
「野島伸司、本気出すってよ」
乞うご期待!

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