【2014年】7月期 テレビドラマの総括

お久しぶりです。秋の夜長いかがお過ごしでしょうか。
お馴染み定期ポストとなっているテレビドラマについて。
4月期に出来の良い作品が多くたくさん書いた覚えがありますが、1位をつけた「続・最後から二番目の恋」に触れる前にPCのデータが飛び、結果中途半端に終わってしまいました。
なので今回は要点を整理しながら極力短めに一気に書きました。
内容としては、前回クールのドラマの中から面白かったものや話題になったものに触れ、最後に今始まりつつある10月期のドラマをちょこっと紹介できればと思います。今回クールのドラマは見ごたえのある作品が多い気がします。今からでも間に合うと思うので、これ読んで一つでも面白いドラマを見つけてくれればと思います。

では7月期のドラマの総括いきます。
7月期は巧妙に隠されたハズレドラマが多かったです。
正直面白かったのは3つあるかないかというところです。
まぁこれくらいが1クールのデフォルトなんですね。

触れるドラマ列挙しときます。
・HERO
・若者たち2014
・昼顔
・聖女
・家族狩り
・おやじの背中
・アオイホノオ
(ベストはペテロの葬列なんだけど、ここでは触れません)

 

●“笑い”という型破りなダンスからはじまる

内容があまりなかったので後述する作品のようにがっつりと書いたりしませんが、まず「アオイホノオ」についてサクッと触れます。
僕はマンガとアニメとゲームに本当に疎くて、日頃ほとんど手にすることがないんです。最近マンガ原作のドラマも多く原作が読めないことで困ったりするのですが、まさに「アオイホノオ」というのはマンガとアニメとゲームの話なんですね。しかも、庵野秀明とか高橋留美子とかその他多くの著名人が実名で出てくる訳です。
その権利関係を乗り越えてドラマにした事に驚いたりもしたのですが、僕がこのドラマで言いたいことは一つ。それは、
「山本美月は今間違いなく才能に富んだ若手女優の一人である」
ということです。
惚れやすい主人公が物語中で何人かの女性に恋心を抱くのですが、そのメインの一人が山本美月演じる“とんこさん”というキャラなんです。妙な関西弁とのろまな感じ、そもそもこの作品はギャグマンガ原作のコメディなので、福田雄一監督が求めるギャグ要素のニュアンスを的確に捉えてるという事が一目で見て取れました。
もう一方のヒロインである“津田さん”という女性を黒島結菜が演じていて、こちらもすごく味があっていいのですが、個人的にはとんこさんの存在感に圧倒されましたね。
思えば去年、僕は三木監督のコメディタッチドラマ「変身インタビュアーの憂鬱」でヒロインを演じた木村文乃に一度完全にやられているんです。余談になりますが、いまのJR東の「いくぜ、東北。」のCMなんかはもう神です。
で、何が言いたいかっていうと、ギャグドラマやコメディ路線の作品にこそ、それを演じる女優の真価が見られるという事です。
それが分かっただけでも「アオイホノオ」は見て良かったです。
暫くは山本美月出てるだけで作品見ようと割と真剣に思ってます。

では、ここからが本題。

 

●木村拓哉を救った「キムタク」ブランドからの解放

HEROです。
前作の連ドラから13年の時が流れてるという事にまず驚きましたが(でも前回ラスト日韓W杯のカメルーン代表のネタだった記憶がある)前作を踏襲するような形で作られていたので(キャストやスタッフ演出など)思い出補正込みで正直テンション上がった人も多かったんだろうなと予想します。僕もその一人ですし。
演出の共通点をいくつか挙げると、まず過剰なまでのシンメトリーなセット。(地デジ化されてテレビ画面の画角?が確か4対3から16対9になって、それに伴いセットを作り直したとのこと。これは主人公・久利生公平という検事の信念である「公平さ」の表れでもある)また支部の全体を把握できる俯瞰のカメラ画や、すーっと対象にフォーカスしてくる撮り方なども前回に見られた特徴と言えるでしょう。
ただ、今回このドラマがもたらした最大の価値は、上記のような徹底した作り込みやストーリー展開にあるのではなく、ずばりキムタクをキャラクター消費させないこと、そしてそれによってテレビドラマの懐古性(少なからずキムタク出演の過去の大ヒットドラマ正確にいえば2001年の前作HEROまで)にアクセスしたことだったと思います。
キムタクというのは90年代以降日本のテレビドラマにおける完全なるモンスターで、ゼロ年代前半においてその人気も臨界点に到達します。結果、キムタクという人物は物語ではなくデータベースとして消費されるという傾向へと向かっていきます。
つまり、キムタクという視聴率が取れる素材に首相からホームレスといったような多種多様なキャラクターを当て込んでドラマを作るという話題性を重視した手法が目立つようになっていくのです。
それにより、軽視されることになった「物語」(キムタクに何を演じさせるということだけで物語として半分以上を占めている状況)と「テレビドラマという構造や醍醐味」のジレンマが生じている状況がここ十年近くずっと続いてきました。
その最も顕著な反応として、「キムタク出てるから見る/見ない」という単純すぎる物差しで作品が評価されるようになり、コアなドラマファンによるキムタクドラマに対する白けた雰囲気なども正直あったと思います。
しかし、HEROの第1シリーズというのは辛うじてキムタクがキムタクとしてドラマを演じた時代と言えます。今思えば、以降次第に難しくなっていく「ベタなキムタクのイケてる物語消費」というものが成立していたほぼ最後の作品だったと思います。
それを可能にしていたのはキムタク以外のキャラクターたちの活躍でした。
キムタク以外を立てることでキムタクがキャラクターから解放される前作HEROに見られた構図をきちんと踏襲することで、ここ十年のキムタクドラマの負の要素であるキャラクター設定落ちしてしまいそうな部分を見事に回避することに成功していたと思います。

ベタな恋愛ものなどが成立しない年齢になりながらもキムタクで視聴率を取るため頼らざるを得なかったキャラクターをリセットし、キムタクがキムタク(=久利生公平)でいることを赦した、それを支えた周りの役者たちのキャラクターとの中で生まれた物語の滑らかさや一体感、キムタクがドラマに馴染んでる事で生まれる面白さというのはこのドラマの功績であり一番の魅力だったと思います。
最終回では法廷闘争なども見られましたが(映画版ではメインで扱われていた)、そこら辺の物足りなさは目をつぶっても良いのかと思います。
キムタクは次連ドラで何をやって(やらせて)くれるのか。
僕の主眼はそんなところにあります。

 

●「家族」というリアルから遠くはなれて

今回のドラマでは、テイストは全く違うにしろ「家族」というテーマを描いた作品が二つありました。
「若者たち2014」と「家族狩り」です。
「若者たち」は、1966年つまり今から50年も前に作られたドラマを現代版にリメイクしたフジ開局記念となる企画のドラマです。
一方、「家族狩り」も1995年に天童荒太によって発表された同名小説の連ドラ化で、大石静らの脚本に天童氏自身も加わるなど、話題性の高い作品でした。
初回を見た限りでは、時代錯誤も甚だしい家族の姿を描いてしまい視聴者を大いに当惑させた「若者たち」と、複数の舞台を並行して進行させる物語に雰囲気を感じた「家族狩り」といったように、「家族狩り」に分があったと言えます。

若者たちが初回あり得ないほど空振ったのは、演出を担当した三人のうちの一人である杉田成道氏の誤った時代観(若者にはこうあって欲しい、がそんな若者はもういないのかという落胆を込めてのもの)にあって、せっかく2014と銘打ってリメイクしようとしているのに蓋を開けると単なる杉田氏の頭の中の若者像の押しつけとしか受け取れなかった部分に原因がありました。
しかし、暴君の困った演出にもめげない役者たちの演技は回を追うごとに凄みを増し、肝腎の若者やその家族像のテーマにおいても、中江功・並木道子両演出家(一話ごとに演出をリレーする形式を採用)の必死の軌道修正によって貯金ができ、杉田回でそれを食いつぶしてもなんとか作品をマイナスに落とさないというビジョンがだんだんと確立していきました。

一方、家族狩りは毎回少しずつ物語は進んでいくのですが、同時進行する各舞台での物語の繫がりには明らかにちぐはぐさが目立ち、家庭の事情でおかしくなってしまう少女の狂気の描き方の凡庸さや、これくらいやっとけばテーマに重厚感が持たせられ家族というテーマに踏み込んだ事になるだろうという安直な態度が目立っていきます。正直、途中からはシリアス路線で追っている人がどれくらいいるのだろうと思うくらい頓珍漢な方に物語が破綻していき、最後は何やっても手遅れの中、悪質極まりないメッセージを残して終わるという驚きの趣味の悪さを露呈します。こんなに酷い作品よく作れるなというほどの出来でした。
テーマとしては、「現代的家族のリアリティ」を描ける素材・切り口だったと思いますが、あそこまで下手に作ってしまうともうメッセージも何もないという感じです。
個人的には家族というテーマを薄っぺらく追って失敗するくらいなら、ゴールデンでは珍しい「ホラー」などの要素に重きをおいて作っていけばもう少し救いの手はあったのかと思いました。

それとは打って変わり徐々に作品観を構築していった若者たちは、見事なまでの大逆転劇を演じます。
ここでは、Twitterに書いた最終回の感想をそのまま引用します。

最終回。5話ぐらいからあの暑苦しい演出にも慣れて、その中で中江・並木両氏が上手にバランスを整えながら、特に後半は何やっても上手くいく程に作品の骨格が仕上がっていた。
だから最終回もう一回腕捲って何かしてやろうなんてのは無くてもよく(実際無い)、電気が止まった茶の間で柴田翔の小説とか谷川俊太郎の詩とか引用しながら、兄妹全員でロウソクの火を囲む形で語らうという時代錯誤を押し付ける杉田節がただただ愛おしくなるばかりだった。
このドラマ、一見カタルシスを想起させる“あの時は良かった”というメッセージに取れなくもないんだけど、一つこれは重要だなと思う事があって、それは妻夫木演じる長男旭の口癖である「理屈じゃねぇんだよ」という言葉。その意味を、拠点である一軒家を失いバラバラになりながらも画というか見えない絆(これこそが家族の本来の姿)で見事に示したんだよね。
つまり、一緒に住んでないからとか毎日言葉を交わさないからという理由で“それって家族なの?”みたいな理屈や“家庭崩壊”という安直な危機感の煽りに対して、
俺らはこんなにも美しい時を重ね、人生を共有してきた。
そういう打ち消すことのできない証ってのがまさに「理屈抜き」で俺ら家族の構成要素であって、これからどんなに苦しい事や哀しい事があってもまたどこに行ったとしても、お前らは家族という絆で守られてるから大丈夫だ、みたいな明確な返答が示されてた。

「あの時は良かった」という言葉は逆説的に「もうあの頃には戻れない」という意図を孕んでて、けどこの作品は「良かったあの頃には何度でも戻れるぞ」的な、冷静に考えると無茶苦茶強引で精神論ゴリ押しのメッセージなんだけど、そんな事を力業でもってしても伝えたかったんだろうなと思う。それがちゃんと伝わったので、良いドラマだったと思う。

 

●1話完結、その究極体としての「オムニバスドラマ」の功罪

次「おやじの背中」です。
これはTBS日曜9時の半沢とかルーズベルトゲームとかやってたところで、一昔前のファミリー向けな感じから一転、手持無沙汰で趣味の無い団塊ジュニア以上の主にお父さん世代をターゲットに据えた連ドラとしては異色の枠になります。
今回企画されたのが、「おやじ」をテーマに10人の売れっ子脚本家に1話ずつ脚本を書いてもらい、それを基に全く異なった短篇作品を10本放送するというものでした。
10人の脚本家には、倉本聰や鎌田敏夫といった大ベテランから、今をときめく岡田恵和・坂元裕二・木皿泉・三谷幸喜など、脚本でドラマを見たりする人たちにはたまらない豪華なメンツです。
その脚本家たちが思い思いの切り口で父と子や夫婦の物語などを描いくのですから、面白くならない訳がない。
同じテーマにおいても45分の物語の中に各脚本家の特徴が色濃く感じられ、また1話完結ものということで自分の見たい回だけを自由に見れるという現代的消費のメリットもあったと思います。
ただこれが45分×10話を3か月という長期間で放送するという日本的な連ドラとしての形、それに伴う見応えや魅力・独特の機能が働いていたかといえば、やはり正直そうではなかったと思います。
なので、連ドラの枠を使ってまでやるべき作品だったのかという根本的な疑問が残りました。
次が見たいというモチベーションや作品を通じての作家の訴えなど連ドラにおける重要な要素というものが目に見えて欠落している分、盛り上がりに欠けてしまったのは必然のように映りました。
連ドラとオムニバス、実験的な姿勢は評価できますが、この手法が世間に受け入れられるのはもう少し先になるのかなと思います。
個人的には、坂元裕二と木皿泉の回でグッときました。

 

●連続したリアルの堆積としての、“正しき”恋の記憶

今回痴情のもつれというか不倫の恋やそれに準じた危険な愛をテーマにした作品が2つありました。
一つは、社会現象となり巷を大いに賑わせた「昼顔」
そして他方、実在する女性が関与した連続不審死事件をベースに描かれた「聖女」です。
脚本・主演は、昼顔から井上由美子・上戸彩、聖女の方は大森美香・広末涼子とビッグネームを揃え、互いの作品を意識している素振りすらなかったものの、比較して見ることで楽しみの広がりも感じられた両作だったと思います。

「昼顔」に関していえば、最終回間際まではストーリーの展開や不倫という禁忌ネタの扱い方、それに触れた時の主人公たちの異なる心情や選択、主に昼過ぎから夕暮れがメインの時間帯になる中で無機的でありながら仄かに明るい画面の色彩調節など、細かなディティールにおいても作り込みの感じる作品でした。
その中でも個人的に印象に残ったのが、不倫というテーマを描きながらも一際目立った、上戸彩と斎藤工の“ごっこ”的な関係性でした。
斎藤工が高校教師という設定もあってか、図書館での密談や校内放送での告白・駆け落ちの企てなど、どう考えても不倫に合わないシチュエーションや小道具が回を追うごとに見受けられます。
それが意味するのは恐らく、若かりしころのピュアで瑞々しいときめきや恋愛感情の投影です。しかし、実際当人たちがやってるのは決して特別と切り離せない凡庸な不倫であり肉体関係な訳です。
つまり、不倫という世間一般では悪とされる行為を、純真な感情を煽りナレーションベースで自らを説得そして美化することで特別感を楽しもうとしているとも読めるのです。
この“特別感”というのは、不倫をしている特別感などという事ではなく、純粋な気持ちがあっての(その意味で特別な)不倫なんだという意識のことです。
または、不倫という行為をしている非日常な自分に同じく非日常な過去(学生時代)の自分を重ねわせているとも取れます。つまり、不倫をしている自らにアイデンティティを見出そうとしているのです。
話にのめり込むことなく一歩引いて客観的に分析すると、二人が墜ちていく過ちはちびっこたちが好んで行う“ごっこ遊び”と大差がないことに気づいてしまいます(しかし実際そういう視点で消費されている訳ではないという惜しさ)。
オチは凡庸で、その説明も不十分。最後に通り過ぎる消防車のシーンは何のメタファーなのか(火遊びだったことにしたいという意味だったら安直過ぎる)など、先行する世間での盛り上がりとの齟齬を感じることが多かった作品でした。

一方「聖女」ですが、これはかの有名な連続不審死事件の犯人(木嶋佳苗)が広末涼子くらい美人だったらという仮説を基に物語が作られています。こちらは「昼顔」とは真逆で、美化されつつあった淡い高校の恋の記憶が現実にフラッシュバックし襲い掛かるという展開で話が進んでいきます。

あらすじを簡単に説明すると、連続殺人の容疑をかけられた広末演じる肘井を弁護することになった永山絢斗演じる晴樹は、実は大学受験の直前に肘井に家庭教師をしてもらっていた経験があり淡い恋心を抱きます。肘井のために必死に勉強する晴樹でしたが、肘井は突然行方をくらまします。その後晴樹は最難関大学に合格、司法試験をパスし弁護となります。それから時は過ぎ現在の晴樹には婚約者もあり、ただ高校時代の肘井への恋心というのを完全に断ち切ることのできない中で、連続殺人事件の被疑者として肘井に接見することになるという感じです。
上記の設定から出来過ぎたフィクションのように思えますが、木嶋佳苗のようなモンスター実例が存在する分、リアリズムとして割とすんなり受け入れれたような気がします。
そういった意味でも脚本の幅は大いに見込め、担当した大森美香にとっても手腕の見せ所だったと思います。始まる前には脚本のエンタメ的な要素と重めの作品のテーマとがどのように噛み合っていくのかと期待を寄せていました。

久しぶりの再会で燃え上がる恋心との葛藤から次第に自分を見つめ直していく男性と、始めこそ平静を装うも自分に心がないと分かると相手に必死に縋る女性。ここら辺の心のすれ違いを見事に表現しきった広末の狂気じみた演技や、永山絢斗の悪女に引っかかる(最近彼こんな役ばっか)どうしようもない姿やそこでの葛藤は物語の核としては十分だったと思います。
評論家の中森明夫氏は、今回の広末こそが“悪女元年”だみたいな話をしていて、ただご存じの通り広末って今まで何度か芸能界でもやらかしてて、つまり広末のファンでもない人間には幾ら聖女のフリをしても彼女は本当の“聖女”になれないという現実に気づいているんです。それを踏まえて、それでも広末は聖女を演じている訳です。主にそれでも信じたいファン(広末が初恋の人)のために。
つまりこれは男を誑かす被疑者としての設定を借りる事で、世間へのリアリティを纏った広末涼子本人の審判の物語へと形を変える事を可能とするのです。
この強烈な相互関係により現実と物語の境は溶けてなくなり、角度を変えると広末自身の個人史的な物語とも取れるように感じます。
ラストちょっとがっかりした形で結末は迎えますが、そういった意味でも個人的には評価に値する作品だったと思います。
最後に「聖女」を見ながら取った記憶にないメモ書きに物凄く意味深なところがあったので転載して終わりにします。
≪忘れられないのではなく、過去を遡る能力を有した。
それは、なんと愚かな存在の証明なのであろう。≫
凄い怖い言葉で、これ自分の頭から出てきた言葉じゃなくて作中とかのセリフであって欲しいと思ってます。

 

最後に今始まりつつある10月期のドラマです。
ほぼ全て1話は見ましたが、今回も脚本と原作で選ぶのがベストだと思います。
見るべき作品は5つ。
NHK総合・火曜10時「さよなら私」
フジテレビ・水曜10時「ファーストクラス」
TBS・金曜10時「Nのために」
TBS・日曜9時「ごめんね青春」
NHKBSプレミアム・日曜10時「昨夜のカレー、明日のパン」

今日の信長協奏曲のあっちゃんの笑顔に心から癒されました。
では、またドラマでは年末に。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。