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感銘を受けた本ベスト10

感銘を受けた本ベスト10 Posted on 2015年1月12日

ようやく書き終わりました。
去年発売された中で個人的に感銘を受けた本のベスト10です。
今回は小説にしぼってます。

10位 キャプテンサンダーボルト 伊坂幸太郎/阿部和重 著

図書館では借りれそうになかったので、去年唯一購入した単行本小説。
人気作家2人が4年かけて900枚も書いたと発売前には特設ページなんかも作られ、書き下ろしの本に読む前からこんなにも興奮したのは久しぶりでした。
一番の特徴は、なんといっても共著であること。
これまでも話題になった共著というのは幾つかありました。
今ぱっと思い浮かぶのは、江國香織と辻仁成の『冷静と情熱のあいだ』ですかね。同じく14年に出版された中田永一(乙一)と中村航の共著『僕は小説が書けない』は、芝浦工大が開発した「物語生成支援ソフト」というものを使って書かれた本筋とは若干違う話がしたくなる書き手の存在の問題に切り込んだ作品でした。タイプは異なれど本作同様話題になった共著と言えるでしょう。
ただこの作品は、共著という形を取りながらも従来の章ごとに作家が交互に書いていくというようなスタイルを採用しません。
ゆえに読んでいても一見何処をどちらが書いているかということは分からず、それを推測しながら読むというのが個人的には面白かったです。
映像を見せられているかのような描写のスピード感(映画の下敷きとして作られたとしか思えない)は伊坂氏の手腕でしょうし、9.11や3.11への言及、テロやロシア人の殺し屋とSiriを使って会話をする場面、村上病という多重性を持つオチ(春樹の方を意識したとインタビューにあった)の部分は阿部氏の着想でしょう。
それらを物語として束ねる一文一文の起りは果たしてどちらからのものなのか、判断をしかねぬ程二人の息はぴったりと合っていて、新しい作家誕生の萌芽すら感じました。
この本が売れないとエンタメも純文学も死ぬから、話題性や多くの人に読んで欲しいという意味を込めて10位です。

 

9位 献灯使 多和田葉子 著

ここ数年女性作家の活躍が目覚ましく、去年も芥川賞をはじめ多くの文学賞を女性作家が総なめにしましたが、個人的に14年で心に残っている女性作家による小説というのは本作ぐらいでしょうか。
女性作家を推したいという意味でのランクインという要素も若干あります。
ただこの作品、世間的な評判が凄く良かったです。
特に日常的に本を読まれる方がこぞってベスト級の評価をしており、去年の純文学における代表作のような扱われ方をしていたと言っても過言ではないです。
帯にも書かれていますが、いわゆる震災をモチーフにしたディストピア小説です。去年も文学界では「震災」というワードが継続して語られました。
本作の特徴でもある、震災以後の曖昧且つ不気味な世界の描写から最後唐突に距離を迫り宣告される“恐怖”という構図には、震災を扱ったのディストピア小説の完成を思わせるもはや普遍的な佇まいを感じました。
前半部分に、ディストピア的な描写として外来語禁止による当て字(タイトル含め誤変換的な表現が多様される)や鎖国の実態を示し、伸びきってしまったこの世界で生きる4世代にわたる家族の物語として後半へと繋がっていきます。
物語は義郎という100歳を超える人物の三人称一元視点で始まりますが、後半へと進むにつれその視点が妻や曾孫である無名(もう一人の主人公)へと頻繁にズレていき、描かれている世界の歪さや不気味さが漂い続けます。
ラスト付近で変わり果てた現状の理由として震災が挙げられますが、この世界がおかしくなったのは単にそれだけのせいではないという強い含みを持たせた表現が印象的でした。
また、他の生物亡き後の「人」という生き物を比較するというテーマにおいて、震災を基準に生まれた世代的断絶(ビフォア/アフター)を「人間的な価値観」というありふれたもので測るのではなく、あくまで「生物的な観点」(身体構造などのフィジカル)から並列させているという部分もとても興味深かったです。
無名が“献灯使”に選ばばれ海外へ派遣されようとするラストは、(歴史的な)犠牲と(身体的な)希望をミックスさせた畏怖のようなものを備えていました。

 

8位 9年前の祈り 小野正嗣 著

14年の下半期の芥川賞候補になるだろうと思って読んだら、なりました。
個人的には受賞してもおかしくないと思います。いや、取って欲しい。
小野さんの文章を特に好んで読む訳ではないのですが、読むといつも良かったなと思います。フランスやフランス語文化圏の研究者を潜在的に好む傾向が年々強まっているように思います。
主人公である安藤さなえの現実をベースに、その世界が自在に形を変えるかのように回想が都度都度挟み込まれ物語は拡がりをみせます。
その回想と現実とを行き来させる滑らかな筆致に心地よさを感じました。
また、安藤さなえの恐らく障害を抱えた息子との日々の触れ合いから生まれる“現実的”な祈りと、9年前カナダ旅行での同行者であるみっちゃん姉の救済を求める“神話的”な祈りが重ね合わせられる必然性・必要性という宗教画のような綿密に計算された構図も見事でした。
加えて、重なった祈りから改めて気づかされる「きょう」という日の重みを自身の日記を用いて表現したり、旅行先ではぐれぬ様にとみんなでしっかり手をつなぐことで示される「物理的なつながり」などが、最後にさなえと息子の手が重なり、恐れることなく悲しみを振りほどくさなえの機微として回収されるラストも素晴らしかったです。蓮實重彦が帯で同じようなこと書いてて優越感に浸りました。

 

7位 朝露通信 保坂和志 著

一昨年くらいからまた旺盛に作品を発表するようになり、今でも日本に文壇が存在するのであれば今やその最重要人物と言ってもよい・・・保坂大先生。
去年も冒頭が、
「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」
で始まる定型的思考を悉く排除する文章の怪列による小説『未明の闘争』を頭を抱えながら読んで年間1位にしましたが、もはや大先生の新刊が出てしまえば読まないという選択肢はないのです。
注目すべき本作の冒頭は
「たびたびあなたに話してきたことだが、僕は鎌倉が好きだ。」
というもので、読売新聞に連載されていたということもあり“一見”すんなりと読めるのではないかと安堵感を得た記憶があります。
ただそこは大先生、そんなに簡単に読ませてくれる訳がないのです。
連載の1日分が見開き1ページに収められていて、それが連載分(180回程)重なって一つの小説として体を成していますが、冒頭の易しい一文とは変わり読み進めていくと次第に感じる違和感やおもむろで散文的な表情に、読者は「一体いつの何の話をしているのだろうか」と大いに惑わされ深い穴へと吸い込まれていくような感覚に陥ります。
冒頭にもある本作の主人公“僕”というのは紛れもなく保坂氏自身であるのですが、巻末のことわりみたいなところで、
「この小説の主役は語り手の“僕”でなく、僕が経てきた時間と光景だ、それ以上に、読みながら読者の心に去来するその人その人の時間と光景だ。」
と書かれていて、読み手はその掴めそうで掴めない手触りに終始対峙せざるを得ません。
しかし、氏はどこかのインタビューに対し、
「これは読者が読み始めたところから始まる物語で、読み終わったと思うところが結末になる物語。物語内を自由に動きまわり、好きなところを自由に摘み取りながら味わって下さい。」
みたいな事を言っていたような気がします。
そういった解釈が赦されるのであれば、朝の光をいっぱいに含んだ鎌倉の瑞々しい情景やそこに根づいてきた穏やかで日常的な描写、時間軸を丁寧にほぐし夢の中へ誘うかのような多幸的な瞬間の連続を、本作は経験をさせてくれるはずです。
また保坂氏の個人史を遡っていくうちに、今まで頭のどこかに丁寧にしまわれていた自分の生い立ちやその時の景色や音、ぼんやりと考えていたことなどなんかがふっと蘇ってきて懐かしみを覚えることができるはずです。
今年も保坂スクールの面々の活躍に期待です。

 

6位 夜は終わらない 星野智幸 著

今年も著名な作家による「メガノベル」と呼ばれる類の小説がちらほらと上梓されましたが、本作もその一つでしょう。重たかった。
調べてみると震災以前から連載が始まっていて、震災を経て去年に至るまで書き続けらていた作品になります。
この本が出た際、比較として頻繁に持ち出されたのが「千夜一夜物語」でした。
これは、つまらないと人々を殺すことを繰り返した国王が、話の先が気になるため殺す事をせず毎晩ある話し手に話をさせたというという「千夜一夜物語」との構造的な類似であって、作中で展開される話はもちろんオリジナルです。
この書き方近年でも古川日出男の『アラビアの夜の種族』などで採用されており挙げればきりがないのですが、共通する特徴としてストーリーの総量が膨大になりがちです。冒頭にもちらっと書きましたが本作も900枚を超える超大作です。
構造としては、一晩に一つのストーリーを語りながらそれを上手にストックし、メタ的な入れ子をもって各ストーリーごとの隙間を埋めながら膨らませ、やがて一つの壮大な物語へと集約させていくといったところでしょう。
性的な違和感が語られる「日常活劇」、原発について書かれた「フュージョン」など、その内容は多岐にわたるのですが、全ての章において読み手の側の想像力を掻き立てるような物語になっています。
同じく去年出版された佐々木敦の新刊『あなたは今、この文章を読んでいる』には、
「これまでのメタフィクション的な作者の一義性を強化していく物語から、読者の存在が予め想定された新しいフィクションの形態(パラフィクション)が生まれ始めている」
といった事が書かれていましたが、この本はまさに読者に解釈を委ねその想像力を信じる形で成立している物語だった気がします。
ファンタジーの顔をした星野智幸の小説です。

 

5位 東京自叙伝 奥泉光 著

本作はこれまでに紹介した作品の特筆すべきポイントと重なる部分を幾つか持った小説でした。
まずはその総量。本作も俗に言うメガノベルの部類に入ると思います。
また、一人称である語り手に物語として必要なもの以上を背負わせるといった特徴は保坂和志の『朝露通信』に通ずるところがありました。
6人の登場人物の一人称で江戸末期から現代までの東京を舞台に物語は進行していきますが、最後まで読み終えた時にふと気づくことがありました。
それは、タイトル宜しくこの小説はその時代その時代の「東京という街」自体を主人公に据えた物語になっているということです。
街というものは、その内に人やその他多くの生物・建物や時代の空気などを抱きかかえながら歴史を紡いでいきます。その積み重なりが可視化された時、最もグロテスク且つ複数の意味を孕みながら魅力的に映るのが本作の主人公でもある「東京」という街なのではないでしょうか。
街の盛衰、表と裏や、過ちと反省(しなかったり)といった東京という魅惑のキャラクターが出来上がるまでの長い長い物語であり、また未来永劫続いていくような可能性の物語です。それは、東京の魅力に直結します。
東京は、鼠かもしれないですね。

 

4位 どろにやいと 戌井昭人 著

これは去年の前半の芥川賞評のところで書いたので割愛します。
芥川賞取って欲しかったな。


 

3位 ボラード病 吉村萬壱 著

9位に入れされて頂いた『献灯使』と同じく震災関連のディストピア小説です。新聞や文芸誌の書評においても軒並み高評価で、最初読んだ時には年間ベストだなと思ったぐらいのクオリティでした。
予め断っておくと、これから紹介する2位と1位の作品は個人的な思いが強すぎて普通の人が読んだときに複雑な心境になりかねないので、何か1つ読んで下さいと勧めるならば本作となる気がします。広く読まれるべき本だと思います。
強く勧めた以上ポイントなどを饒舌に語っていきたのですが、本作は最後に壮大なオチがありそれを言ってしまうと小説自体が死んでしまうので、今回はなるべくネタバレを避ける形で解説していきます。
3.11の震災以降、身体を動かしたりお金を寄付したりと様々な支援のカタチが生まれてきた中で、作家たちは挙って「小説に何ができるか」という事を考えてきていたなと思います。この震災と向き合った上で生まれた「小説として伝える」というアプローチこそがこの本における最大の魅力だったと思います。
小説ならではの「想像力」を以ってして3.11の記憶を留める事を可能とした光景をこの本の読者全員は体験できるはずです。
物語は絶えず不気味な感じを齎しています。そのディストピアな世界を善しとするために押し込められ左右に倣い見て見ぬふりをされた“異常さ”を生々しく抉るための一手が、震災を受けての作者の創作の原動力と見事に重なります。
特に後半、タイトルである「ボラード病」という言葉の真意が読者に投げ込まれる辺りや主人公の滲むような怒りが伴った手記の部分には、恐ろしさを軽々と超越した孤高の美しさすら漂っていました。(これは作品のイメージをぶち壊しにしかねない表現だけど)。やはり最後が肝腎ですね。
全然何言ってるか分からないと思いますが、読めばちゃんと分かります。
想像力を持って現実に立ち向かうためにはぴったりの小説だと思います。
読んだ瞬間から責任は伴いますが。

 

2位 ルンタ 山下澄人

なんで2位なのか自分でも明確な意思を持って主張出来ないのですが、なんかよかったのでしょうね。
特に好きな作家ではないのですが(寧ろ嫌いだった)、書けば必ずといって良いくらい文学賞の候補にあがり、候補にあがれば読まざるを得ずを繰り返していくうちに遅ればせながら好きになってしまったようです。
それで好きになって読んで、今回こそはと思って応援しようとしたらまさかの芥川賞の下半期の候補から漏れているという、とても不思議な作家の小説です。
その不思議な小説家、作家性が非常に強いです。
同じく去年新潮に掲載された渡部直己『今日の「純粋小説」』という長めの刺戟的な論考で、昨今の純文学小説に頻繁にみられる傾向に「移人称」という言葉を充てた説明がなされていました。人称を弄ったという意味です。
ここから少し複雑な話になりますが、確かに最近の文学小説には意図的に人称が操作された作品が多く且つそれが軒並み高い評価を得ています。今や最近の純文学のトレンドと言ってしまってもいいと思います。
上半期で芥川賞を受賞した柴崎友香の『春の庭』をここに含むのは若干酷なんですが、あの作品も三人称で書かれた小説が最後驚くほど唐突にそれまで殆ど登場しなかった視点人物の姉の一人称が急に入ってきたり、一昨年芥川賞を受賞した藤野可織『爪と目』も最初は一人称か三人称で書いていたもの二人称に直したところ評価を得たと作者本人が語っていました。
渡部氏はこの論考の中で「テクストにおける話者性と描写性の関係」について言及しており、そこから「描写の見事さにかける場にこそ、異数な“話者”が根づくのではないか」というような仮説を導いていました。
山下澄人ってまさにそのような現象を体現した作家なんですね。(は?という感じでしょうが。)
作品に話を戻します。
全体の印象としては前作『コルバトントリ』より頻繁につまり短いスパンで人称だったり視点・舞台が変化し続けていきます。ただ、大枠としては捉えられる形が遺っていて慣れれば読んでいて混乱することもそれほどもなく、もちろん人称や時代の切り替わりの扱いには慎重さを要するのですが、最後まで読めばなんとか一回でも分かった気になりました。
山下作品の特徴である動物の描写や視点が頻繁に顕れ、タイトルである“ルンタ”というのは風の馬つまり馬のことであり、この大きな馬とそれを囲む人と山と海が見事に折り合って、全方向的な温かみを感じることができます。
同じく山下作品に馴染みの深い、視点の混濁から導かれる“生と死を超越すること”というテーマもこの温かさに寄与していたと思います。
雪山も出てくるような一見寒々しい小説なんですが、確かに感じる温かさがあり、その温かさには希望が宿っている気がしました。

 

1位 淵の王 舞城王太郎 著

結論からいうと大傑作です。
一度読み終わった後に、この読後の多幸感は小説を読んだ時にしか味わえないものだと確信しました。しかも限りある素晴らしい小説を読んだ時に限っての。上手く説明できませんが、映画とか音楽とかドラマやアニメ色々あると思うんですが、それのとは圧倒的に違う気がしています。
ただ、この小説の真価というのは舞城王太郎という作家の個人史とセットで語る事でのみ明かされるもので、そうなるとこれから延々と舞城の作家性云々なんて話になるのが必然で、そんなの聞かされたらたまったもんじゃないと思う人の方が多いでしょう。なのでここでは少しだけ話させてもらいます。
ここからは舞城に対する完全な私見です。
舞城王太郎という作家には前期と後期があり、前半は主にメタフィクション的な階層をいじり世界をハッキングするみたいな事をずっとやっていて、その極点が08年に出版された『ディスコ探偵水曜日』という作品で示されます。
この作品は舞城の最高傑作という枠に留まらず、日本でいうところの80年代以降筒井康隆などによって書かれ始めたいわば「メタフィクション小説」の一つの完成形だったと言われています。
そして後半にあたる『ディスコ…』後の第一作として発表された『ビッチマグネット』では、今までのメタ構造というのは一気に抑えられ、日常にありふれた家族の物語をこれも舞城を語る上で極めて重要な特徴である、人間の脳みそをハッキングしてそこに日常的に存在している言語をそのまま(口語的)に紙の上に載せるという事に焦点が当てられます。
つまり、前期では世界を、後期では脳みそをハッキングすることで物語が生成されてるというのが、舞城作品の大まかな変遷ではないかと思います。
そして今作ですが、これは間違いなく後期舞城の代表作です。
脳みそを掬い取ったように言語化していく後期の作品では、一人称で書く以外は不可能と思われたところを(「私」の脳内の言語をそのまま垂れ流すことでしか成立しないので)今作が一人称以外の方法で書かれた事によって、「私」以外の言葉たちで溢れかえった世界で、読者=作者(舞城本人)=「私」は初めてそれをメタ的に受け取れるという前期舞城の作品の特徴をも包括したような極めて完成度の高い構造を持っています。
今書きましたが、それを可能にしたのが今回の作品で用いられた二人称です。
今作は「中島さおり」「堀江果歩」「中村悟堂」という三人の主人公が登場する3章の物語から成立しています。
その各人を「あなた」「君」「あんた」と呼び、寄り添う形で存在する観察者(身体はないカメラのようなもの、ただ強い人間の心は持っているから物ではなく人として存在する)「私」「俺」「私」によって物語が明らかになっていきます。
ここで一つ断っておきたいのが、これまでで今年は「移人称」が極まった年だったという事を書いてきましたが、本作における二人称だけは唯一の例外です。
流行りの人称を弄って遊ぶという流行の形式としてではなく、本作が採った二人称は、極めてドメスティックな理由(舞城が自身の作品を越えるための挑戦)からのみ生まれたものだったということを強く主張しておきたいです。

3章には共通する事象も多く、例えば物語で描かれているのはあくまで「私」の推測であり、「あなた(主人公)」の本当の心は誰も知り得ません。
そして、その主人公たち「中島さおり」は「責任感」、「堀江果歩」は「正義感」、「中村悟堂」は「愛」というそれぞれの感情を携え、過剰なまでに他者や社会にコミットしていきます。
それをひやひやしながら観察する「私」はまた「あなた」の近くを付き纏う「闇」や「影」「暗い穴」といった陰鬱の対象としての存在にも気づいてしまいます。
その陰鬱のメタファーは暴力や恐怖、怪談などとして顕在化しつつ、各章の最後で「私」ないしは「あなた」はその陰鬱とした何かにに飲み込まれてしまいます。
勿論それは死(終わり)を意味するのですが、実はその時の「私」の感情こそが今作のテーマなのだと思います。
最後の描写で、中島さおりを見つめる「私」は「悔しい」、堀江香歩を見つめる「俺」は「怒り」、中村悟堂を見つめる「私」は「幸せ」、だけの存在となります。
その動機も合わせて書くと、「悔しい」は「あなた(=中島さおり)」に愛情を伝えられなかった事に対してで、「怒り」は「君(=堀江果歩)」が憑り付かれた恐怖の展開から守れなかった事に対してで、「幸せ」は「あんた(=中村悟堂)」が責任感や正義感だけでないという前者二人を踏襲する形で生まれた究極の感情である「愛」と「私」が「あんた」に抱いていた感情としての「愛」がついにシンクロしたということについてです。
つまりこれは最終章で漸く結実する「あなた」と「私」の愛の物語なのです。
そしてそこには究極に純粋な「言葉」=「心」があるのです。
これを読めば時空とか含め割と愛という概念で超越できるなと思えました。
ただ、これはあくまで「私」とある程度切り離された「読者」=「自分」の主観であるので、読んでクソつまらん小説だわという反論は受け付けませんので悪しからず。

 

【まとめと15年の展望】

14年はここ数年ずっと見られ特に去年「移人称」というワードとして取り上げられたことで注目された小説たちが、実は成熟に達したというか緩やかに減退し始めた年だったのではないかと思います。
その理由として、代表的作家である保坂さんが『朝露通信』で新たな創作の形を模索し始めたことや、山下澄人の『ルンタ』が芥川候補から落ちたことなどが挙げられます。
そして15年、テン年代の純文学は既に新たな方向へと向き始めていて、そこで注目されるのは今回も芥川賞候補の3作にノミネートされた「新潮新人賞」受賞作家たちの活躍です。
まず今回の芥川候補が、毎年一人しか出ない新潮新人賞受賞作家から3人も出ているというのは極めて異例の事態です。丁度一年前に芥川賞を受賞した小山田浩子も新潮新人賞を取っているのを考えるともはやこれは偶然としては片付けられないと思います。
では、新潮新人賞の何が凄いのか。
考えられる最大の要因としては、やはり選考委員の顔ぶれになるのでしょう。
川上未映子・桐野夏生・中村文則・福田和也・星野智幸
の5氏、こんなこと言ったら失礼なんですが正直微妙な感じもします。
ただ、桐野夏生は直木賞作家ですし、中村文則や星野智幸も非常にストーリー性の高い作家です。
この作家たちによって選び上げられる最近の新潮新人賞受賞作には、ストーリーの明確な面白いものを丁寧な描写と強靭な文章力によって形にしていくみたいな傾向が指摘できると思います。人称から描写の回帰ということですかね。
これによって、読者が世界に入り込む事を移人称という形で頑なに拒んできた小説から、割と読者を肯定的に捉えて出来るだけ広い範囲へと届くような小説へというシフトチェンジが起こっているのではないかと思います。
今月の『ダ・ヴィンチ』では中村文則が綾野剛とかと対談してる訳です。
綾野剛超かっこいいし、それをスマートに立てる中村文則って今まで純文学の固定観念捨てて取り敢えず全肯定宣言に成功したんですねあれは。
話を少し戻すと、これがまさに渡辺直己が『今日の“純粋小説”』で「人称」と比較していた「描写」へと繋がってきます。
描写の覚束なさにこそ宿っていた異数の話者が、また強固な語感を携えた一人の話者として戻ってきつつあるというその萌芽を大いに感じます。

今年はそんな小説たちにたくさん出会えるのではないかと思います。