Posted in 散文 Essay

滝口悠生『愛と人生』を読んで考えること

物語と想像力がもたらす力というものを自らの手で証明します
滝口悠生『愛と人生』を読んで考えること Posted on 2015年3月11日
物語と想像力がもたらす力というものを自らの手で証明します

3月11日ですね。
あれから4年、早いのか遅いのかその判断が遠のく辺りに震災の風化を現実のものとして感じてしまいます。(個人の意見です)

今日ある小説を読み終えました。
とても偶然にその本の最後には、それまでとは何の脈絡もない形で震災を思わせる記述がありそれによって今僕はこれを書いています。
だから、今日僕がその本を読み終わらなかったらここにこれを書くことはなかったでしょう。

今日、地震が起こった14時46分に黙祷を捧げたり自身のSNSに書き込みをした人が多くいたと思います。
その中に一つ興味深いツイートを見つけました。
呟いた人(ある文芸批評家の方です)の名は伏せて転載させて頂きます。

「2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。(中略)
集団の死を、集団で慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。

死んだ人間に黙祷を捧げるのに、何故、加害者である地震の側のタイミングに皆が合わせなければならないのか。納得ならん。」

ここまでです。
僕も純粋にそうだなーと納得してしまう部分もありました。
テレビではテレ東を除きキー局は半ば義務的にワイドショーの枠を拡大し震災4年に合わせた報道番組をやっていました。
ただ僕はこのツイートへの答えってこういう事じゃないかなと思ったのです。

滝口悠生『愛と人生』(講談社)
中編が3つ載った作品集です。
その中の3つ目『泥棒』という作品の最後で、今までご近所だった伊澤さんという人物がなんの前触れもなく引っ越しをし、元あった家や庭が業者によってまたたく間に更地にされてしまうという部分があります。
突然お隣さんがいなくなったり、解体までの描写には「水」や「川」「流れ」といったワードが吹き出すように現れ、これはまず間違いなく震災での被害を表していると言えます。
話はさらに少しだけ続き、そして最後にこんな文章で締められています。
(途中出てくる“熊”というのは登場人物のあだ名であり人の事です)

「私も驚きがおさまらぬまま、慌てて、ありがとう、と早口で言った。自分も何かを取り繕っているみたいな気持ちになって、振り返ると、熊を見る時にはたいてい冷たく醒めた顔つきの妻が、珍しく私と一緒に熊に礼を言いそうな柔らかな笑顔をしていた。これまでにほんの何度かだけ見たことのある、私の好きな、忘れられない表情だった。妻もびっくりしてつくる表情を間違えたのかもしれなかった。私はこれからもこの瞬間のことと、その妻の表情を忘れないが、妻の表情を覚えることはできなくて、だから自由に思い出すこともできない。」(滝口悠生『泥棒』)

なぜ、誰しもが誰しもに倣ったかのように同じ時間に黙祷を捧げる(意地悪な言い方をすれば自己顕示的)のか。
それは4年前の東日本大震災の被災者やその関係者でない人間の方が日本には圧倒的に多いからです。その人たちは、どうなるか。
“震災”のことを忘れまいと誓うが、次第に
「覚えることはできなくて、だから自由に思い出すこともできない。」
ようになってしまうのです。

なので半ば機械的なタイミングを利用せざるをえなくて、こうやって祈ったり思い出したりするのです。
人間は弱く不自由で特に自然になんて勝てっこなく、圧倒的に無力です。
しかし、一人ではなく多くの人が集まって一緒になることで生まれる力もあるのかもしせません。いや、実際はそんなシーンばかりでしょう。
震災の被災者の方、今も苦しみながら毎日生活されている方にとって少しでも良い未来が訪れればと思います。

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宝田 とまり
宝田 とまり
物語と想像力がもたらす力というものを自らの手で証明します

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