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『知覚の扉』 オルダス・ハクスリーと認識論

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
『知覚の扉』 オルダス・ハクスリーと認識論 Posted on 2015年4月23日2 Comments
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

オルダス・ハクスリーについて

つい最近、本当にひさしぶりにオルダス・ハクスリーの本を読み返した。
オルダス・ハクスリーは、『すばらしい新世界』というディストピア小説(ジョージ・オーウェルの『1984』的なもの)や、ジム・モリスン率いるドアーズのバンド名の由来となった『知覚の扉』で有名なイギリスの作家だ。

歴史的に見れば、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』は、60年代の西海岸のヒッピーやハーバード大学教授だったティモシー・リアリーやジョン・C・リリーが行った運動、LSDによって意識の拡張を追求した社会的ムーブメントに、大きな影響を与えている。

『知覚の扉』

『知覚の扉』は、幻覚剤メスカリンをオルダス・ハクスリーが実際に体験した、エッセイであり体験記である。
その中で、幻覚剤メスカリンを使用した意識状態での、芸術の見え方、人との関係のあり方、存在の仕方が描かれている。

オルダス・ハクスリーは、身体に刺激を与えることで人間固有の認識のフィルターや社会的なバイアスのフィルターを除去し、知覚の拡大をできるのではないかと考えていた。

イマニュエル・カントがいうように、人間は外部の物自体の存在を知覚しているのではなく、悟性や理性のフィルターを通して認識を行っているとすれば、人は事象そのものを把握することはできない。
つまり人は客観には到達しえないし、あらゆる人は主観で語るにすぎない。
そうした状況での「常識」・「社会通念」に不信感と欺瞞を感じるのは、どうしても避けられないのではないかと思う。

しかし、もし物理的な刺激により、人間固有の認識のフィルターや社会的なバイアスのフィルターを除去することができるのであれば、本質を体験することができるのではないか。そして、それは理想的な話に思えた。

『知覚の扉』 と認識論

僕が、オルダス・ハクスリーについて知ったのはドアーズ(The Doors)を介してだ。
それは、大学に入学した年だったと思う。だから、18か19の時だ。もう10年以上前の話だ。

『知覚の扉』というのは、もともとは詩人ウイリアム・ブレイクの以下の一説からの引用だ。

知覚の扉澄みたれば、人の眼に ものみなすべて永遠の実相を顕わさん

僕は、10代の頃「存在」や「本質」を見たいと思っていた。
人々のいう「常識」や法律の授業に出てくる「社会通念」に強烈な違和感を感じていたからだ。

オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』はそんな疑問を解くための、方法論として僕にとってヴィヴィッドなものだった。

近代哲学の認識論について

そもそも、オルダス・ハクスリーについて考えるために、近代哲学の中心的なトピックであった認識論について振り返りたい。
なぜかといえば、この認識論を超えた扉が開かれるというのが、僕の考えていたオルダス・ハクスリーの『知覚の扉』の幻想だったからだ。

デカルトの認識論、心身二元論について

近代哲学はデカルトからはじまる。近代哲学のメインストリームである大陸合理論を代表する哲学者、デカルトの世界の認識論はコギト・エルゴ・スム【cogito, ergo sum】である。
社会や倫理の授業で有名な、「我思う、ゆえに我あり」だ。

「我思う、ゆえに我あり」とは、方法的懐疑により、一切のあらゆるものが実は存在しないのではないのかと疑って、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしてみても、そのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの自分だけは確実に存在するということことを基底として哲学を体系づける方法である。

つまるところ、近代はデカルトからはじまるわけであるが、デカルトは認識の根本に「主観・理性・自我」のようなものが存在すると考えていたわけである。
今から振り返れば、まさしく理性的な近代を代表する哲学だ。

デカルト的な認識論は、心身二元論にたどり着く。
それは、「この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識、などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。
そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている。」という考え方だ。
つまり、心と体は別々のものであるという言説だ。

とはいえ、この思考法には中世的な思考の残滓も感じられる。
つまりキリスト教的な思想だ。デカルトは、17世紀の近世の人間だ。
ヨーロッパでは、ローマ以来~中世までキリスト教が絶対的な影響力を持っていた。
彼らは肉体と魂を別々のものであると思考する傾向にある。
デカルトの哲学の中に中世的な思考の残滓が内包されているということは、近代が中世のある種延長上にあることを示しているといえるかもしれない。

ところで、これも最近読み返したのだが、昭和15年ころのの石原莞爾の著作を読んでいるとこんな記述がある。

心と物は「人」に於て渾然一体である。
その正しき調和を無視して一方に偏重し、いわゆる唯心とか唯物とかいう事はむずかしい理屈の分からぬ私どもにも一方的理屈である事が明らかである。
しかし心と物は平等の結合ではなく、どこまでも心が主であり物が従である。
思想や信仰の観念的力をもってして人類の戦争を絶滅する事が不可能である事は数千年の歴史の証明するところであるが、
戦争の絶滅に思想信仰の統一が絶対に必要であり、しかもそれが最も根本的の問題である事は疑うべからざるところである。

(心と物は一体としつつも)戦前の日本人も、「心が主であり物が従」という風に捉えていたようである。
これは、結局のところ道徳や理性の要請ではないかと推測しているのだが、どうだろうか。
また、石原莞爾は日蓮宗系の人物なので、そのあたりも関係があるのかもしれない。

あるいは、現代の日本人は、自らを無宗教と信じている人が多いけれども、それでも普通に暮らしている中で「精神」がメインの存在で身体はサブという発想で生きている場面も少なくない気がする。
病気にでもならないと、「精神」がメインで「身体」がサブ的であるという発想から逃れるのは難しいのかもしれない。

ホッブズ、ヒュームらイギリス経験論的な認識論について

上のような心身二元論に、真正面から反対したのが、ホッブズらイギリス経験論の哲学者だ。経験論的には、身体と精神を分けて考えることはしない。
今の用語で考えると、神経生理学的であり唯物論的な発想による哲学であるともいえる。

ホッブズは「すべての認識は、感覚の刺激によるものだ。」と考えていた。
たとえば、今目の前にある机を見るときに、
デカルトなら、コギトとしての絶対普遍な「主観・理性」が机を認識し「机が存在している」と考えるのに対し、ホッブズは机が光を浴びて反射し、その反射した光が網膜に至り刺激を帯びて、その刺激が脳に伝わり「机が存在している」と認識するというふうに考えたのだ。

さらに、ヒュームはその理論を進め、「自我は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの諸々の知覚の束に過ぎない」と論じる。
ここに至ると、デカルトのいう「主観・理性・自我」すらそもそも存在しないのだということになる。

私の場合には,自分の自我と呼ぶものを最も丹念に観察するとき,常に何らかの具体的な知覚(熱さや冷たさ,明るさや暗さ,愛や憎しみ,苦痛や快楽)を見出す.私はどんな時も,知覚なしに私の自我を捉えることは決してできず,知覚以外の何物をも観察することは決してできない

このように「コギト」(理性的認識)の存在の有無を提起したのが近代哲学の源流であった。

カントの認識論について

さて、上の2つの認識論。デカルトら、大陸論的な心身二元論的な認識論と、ホッブズ、ヒュームらイギリス経験論的の認識論を総合したのがカントであった。

カントも、すべての認識のはじまりは感覚の刺激だとした。ここは、経験論と同じくするところである。
一方で、カントは経験論の「感覚を受け、それをすなわちあるがまま認識する」ということに対して、異議を唱えた。

つまり、外部の刺激は同じでも、認識にはフィルターがある。
人間固有の、言語や知性や経験により、感覚は加工されている。
そして、そのフィルターの役割をするのが理性であるという方法で、カントは認識論を論じたのだった。

認識の限界から『知覚の扉』へ

カントがいうように、人間には理性というアプリオリなフィルターがあるとすれば、人間には認識のフィルターを外すことはできない。
特に、時間・空間の概念。これを想定せずに表象を描くことは困難がある。

それに加えて、僕らは社会的生活・教育などいろいろな習慣に引きづられて生きている。
その中で、様々な偏見が生まれたり、視野が狭まったり、特定のイデオロギーやエピステーメーやパラダイムの範囲内に認識は制限される。
つまり、僕らの外部に超越的な真実の世界があるとしても、その真実の姿は僕らには見えないというのが、カントの認識論の限界であった。

カントは、物自体を認識することはできないとしていたからだ。

では、形而上学的な真実がもしあるとして、目にするには、どうしたら良いのだろうか?
僕にとっては、そんな疑問を持っている時に出会ったのが、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』だった。

オルダス・ハクスリーは、身体に刺激を与えることで人間固有の認識のフィルターや社会的なバイアスのフィルターを除去し、知覚の拡大をできるのではないかと考えた。
当時はLSDが開発され、多くの科学者や哲学者に驚きを与えていた時代であった。
オルダス・ハクスリーやティモシー・リアリー、ジョン・C・リリーに加え、20世紀を代表するフランスの哲学者サルトルもLSDを経験している。
『知覚の扉』には、幻覚剤メスカリンを使用した意識状態での、芸術の見え方、人との関係のあり方、存在の仕方が描かれている。

知覚の扉澄みたれば、人の眼に
ものみなすべて永遠の実相を顕わさん

オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』や西海岸のヒッピーのムーブメントは、その後もニュー・エイジなど様々な運動の起点となっている。

1970年代、それまで社会に影響力を持っていた思想であったマルクス主義の物語が急速に力を失う。リオタールの大きな物語の終焉。
そこから人々の意識が流れた先が、ニュー・エイジ的なもの、アメリカ西海岸のヒッピー文化、ロック、LSD、東洋のヨーガだった。

ロック、ヨーガ、LSD。その共通的な本質は、フィジカルな超越的真実との遭遇だ。 現実的・社会的な日常の外部に真実が存在する。そしてフィジカルを通して、その真実と遭遇する。
日本においてはその影響が、東洋思想と反資本主義の感情に結びつき、80年代~90年代前半に強烈な負の側面を露呈してしまったが。

しかし、世界のシステムはいま完全にバーチャル化した。
このバーチャルな世界のマンダラを引き裂く認識論はどこにあるのだろうか。
フィジカルな認識論の書、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』の中になんらかの扉はあるだろうか。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

2 comments

  1. ハクスリーに関して調べていて偶然この文章(エントリー)を発見しました。
    日本語では1950年あたりから数十年続く物質による精神・意識変容の試みについてあまり書かれていない気がするので、興味深く読ませていただきました。
    この試みの端緒にあるのがハクスリーだと思います。その後はリアリー、ラム・ダス、ギンズバーグやリリーなど
    多くのインテリが個別独自に突き進めたと思っています。

    質問があるのですが、なぜ知覚の拡大について真剣に考えるのをやめたのでしょうか?
    私は知覚の拡大、というよりは認識の変化といったほうが個人的にはしっくりくるのですが、それにいまだに興味を持っています。今のところ、物質による認識の変化は本人が思うほど意味があるものではないが、意味が大してないというものでもない、という中途半端な答えを持っています。知覚の拡大について真剣に考えるのをやめた理由を聞かせていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

    1. Aさん

      コメントありがとうございます。

      「知覚の拡大について真剣に考えるのをやめた理由」ですが、

      そもそも「知覚の拡大」を求めて自分で実験・探求をしていた時の動機・欲求は、
      「知覚を拡大すれば、何かこの世界の法則・真理を体験できるのではないか」というものでした。

      つまり、「真実を知りたい」というような欲求がメインの動機で、
      「感覚変容を体験したい」という欲求だけではなかったのではないかと思うのです。

      そして、いわゆる幻覚や神秘体験なども試してみた結果の個人的な結論として、
      「知覚の拡大」「認識の変化」を求めても得られることと、得られことがあるなと思ったんです。

      その中で、認識の追求に限界を感じたのが、知覚の拡大について真剣に考えるのをやめた理由です。

      加えて、社会人として(普通のWEB系企業のサラリーマンとして)生きていく中で
      認識よりも、選択や決断、あるいは解釈や行動の方が重要なのではないかと思うにいたり、
      「知覚の拡大」だけを追求する道は放棄したという形です。

      「知覚の拡大」を追求してみたことについては、
      おかしな話ですが、特定の信仰・宗教や主義・思想には頼らず、
      自分の思考と身体で認識そのものを追求したので、
      わりと内面的には楽しい経験ではあったなと思います。笑

      思考の経緯は、文章でまとめきれないので、
      思考の変遷だけ以下に簡単に書かせてもらいます。
      いずれ、文章にまとめられればと思います。

      ———————————————————-

      ①「知覚の拡大」に夢中になっていた頃の考え

       主観的な絶対性(真理)は「知覚の拡大」によって体験(経験・体感) できる。

       → チベット死者の書に出てくるような、光に包まれるような神秘体験・幻覚を経験できる。
       → 結果として、ひらめきや何らかの洞察を得ることができる。

      ②「知覚の拡大」や認識への懐疑

       どんなに、「知覚の拡大」や「認識の変遷」を経験しても
       客観的な絶対性(真理)は「知覚の拡大」によって認識(経験・体感) できないのではないか?

       → 人間は、五感しか感覚器官がない。五感以外の情報について、語れない。
         五感で客観的な情報をすべて把握できるのか疑問。

       → そもそも、絶対性(真理)はないのではないか? 絶対性(真理)は語り得ない。
         どんな論理も、ラディカルに突き詰めると、破綻する。
         どんな系も、不完全性を内包する。

       → 人間は、客観を語ることはできないので、絶対性(真理)は語れない。
         僕らはひとりひとりの表象の世界の中にいるにすぎない。
         誰も客観性のある世界の中にはいない。
         例えば、今この瞬間が、幻想や夢でないとは証明できる人はいない。

       → さらに、自我すら存在しないのではないか。
         すべての認識が感覚なのであれば、自我は認識の束である。
         デカルトの言う、「我思う・・・」の「我」つまり自我は存在しない。
         観察者としての自我がないのに、客観を語ることはできない。

      ③ 認識論から、実存主義的(ハイデガー、サルトル的)な存在論への意識の変遷

       → 客観的に正しい認識を手に入れることは、不可能に近い。

       → 認識の追求だけでなく、この世の中で生きていくには、
         主体として選択・行動することも必要なのではないかという、思考の転回。

      ———————————————————-

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