映画『her/世界でひとつの彼女』 – 映画の中に自分を見る ~ 感情移入の瞬間の錯乱について –

観た映画の感想です。

『her/世界でひとつの彼女』スパイク・ジョーンズ監督。
去年映画館に観に行った映画の中で、最も感情を揺さぶられました。

理由は簡単で、映画の主人公・セオドアにびっくりするほど感情移入してしまったからです。
ストーリーを簡単に説明すると、離婚調停中の主人公ホアキン・フェニックス演じるセオドアはルーニー・マーラ演じる別居中の妻キャサリンの事を忘れられず、淋しさを紛らわすため最新の人工知能OSを購入しそれ(彼女)に恋をするという話です。

ざっくりとした物語構成ですが、前半部分で人間(男性)の持てる言い訳の全てに寄り添う事が可能な対象はもはや人間(女性)ではないという仮説が示され、しかしラストでは友人と励まし合いなが前へ進もうという主人公の心境の変化が描かれます。

つまり、人いうもの限界(欠損部分や至らない点)を無残なまでに露わに示しながらも、それでも人を救済しうるのは他でもない人であるという、ある種辛辣で逃げ場のない現実的なメッセージを打ち出した映画だと言えます。
特に最後の点において、個人的には閉塞的な感覚を抱きながら結局どれだけテクノロジーが進化しても人の淋しさというのは人の温もりなどと言ったありふれたものでしか補填できないのかという部分が強調されていたと思います。

具体的な内容等に触れていく前に、本作でもポイントとなっている“身体性、とそれに伴う機械と人間の関係”についての話をしておきます。
去年、社会学や物理学の分野で話題となった“身体性”というキーワードですが、身近なところで言うと昨今“ポストSNS”の時代が到来しつつあると騒がれる中でヴァーチャルの繫がりの逆張りとして作用する“フィジカル”を重視したコミュニケーションというものに注目が集まってきています。

専門的なところにおいては、理研が行っているSR(代替現実)システムでの実験や、VR(仮想現実)ヘッドセット「オキュラスリフト」が一般人向けにも流通し始めているという話題、また矢野和男氏による『データの見えざる手』という著書で、人間の主観的な幸せ(感情)は客観的データで計測可能だということが書かれていて話題になりました。
このように、現在人間の行動原理はコンピュータで解析でき、データや技術・機械によってその思考や感情は組み替え可能だというようなことが急速に発展したのが去年の後半あたりの一つの流れだったように思います。
(参考…文科系トークラジオ・文科系忘年会2014パート4

 

折しも、このラジオの中で本作が話題上がる一幕があります。
該当箇所を抜き出し整理してみると、
出演者の一人の、「映画herのOSに恋するみたいな話というのは日本の文化的な話題としては古いんだよね。」という発言に対し、周囲の人間反射的に同意しています。その理由として、日本ではラブライブといった萌ゲーなどで高度な三次元的機械と既に疑似恋愛を行うという現象は存在していたからだと説明がされます。
個人的にはこの年まで殆どゲームをしてこなかったこともありますし、マスに認知されなければ一般論としては機能しないのではと思ったりもしますが、僕がこの映画で体感し新鮮に感じたモードや世界観が、一部の偏りはあるものの既に日本のカルチャーとして存在していると当たり前のように語られていて大いに衝撃を受けました。
今やネタの常套句として見かける「ようやく世界が追いついた」の、まさに読んでそのまま受け取れるような稀なケースではないかと思います。

そろそろ映画の細かいところを見ていきたいと思います。
本作においてまず面白いと感じたのが「時代設定」とそれに伴う「風景」や「職業」について。
時代については最後まで明かされることは無いのですが、恐らく今から30~50年後の未来といったところでしょう。車は空を飛んでないですし、人々は今と大して変わらないマンションに住み今と相違ない仕事をしています。
服装や街の景色を注意深く観察してみると今とは違う共通点がはっきりと伺えますが、ぱっと見た感じの違和感などは殆どないと言っていいでしょう。
その中でも、主人公のセオドアはオフィスワーカーとして手紙の代筆業(条件やリクエストを元に発注者に代わり手紙を書く)をしています。
仕事ぶりはかなり優秀なようで、物語の後半では自身が代筆した手紙をまとめた本を出版してみないかと声が掛かるぐらいです。
この設定が映画のテーマと深く結びつくポイントとなっていて、つまりセオドアは他人の感情や伝えたい事またその人生についての繊細な部分において想像力が働く人間として描かれています。本人はそれを単なる仕事に過ぎないと割り切っているのですが、他人を理解できる優れた能力を持った人間として描かれているというのが一つ重要なポイントになってきます。

見ず知らずの他人については抜群の想像力が働くセオドアですが、何故か自分の事になると悉く上手くいきません。奥さんとの離婚の原因となったのも恐らくセオドア。傷心気味の気持ちを晴らすためセッティングしてもらったデートでも相手を傷つけてしまい、また後に恋へと発展するOSのサマンサにも時折心の無い態度を取るなど、自分に近しい相手との事に関しては想像力が及ばない人間になってしまうのです。

一つ印象的なシーンを挙げましょう。
物語の中盤、テラス席のようなところで食事を取りながらルーニー・マーラ演じる奥さんに自分のサインの入った離婚届けを渡すシーンがあります。
これで会うのが最後かもしれない最愛の人との場面においても、セオドアは無意識的に彼女を怒らせてしまいます。終いには結婚生活での不満を「私をハッピーなLAの妻に仕立てようとした」と罵倒されてしまうのです。
彼女が離婚届にサインをしてる最中にセオドアの頭でフラッシュバックするのは良かった頃の二人の思い出だったり、彼女の笑顔だったり。
そして、最後彼女から告げられる一言がこれです。
「リアルな感情に向き合えないなんて悲しい。」
他人について想像力が働く人間が、近しい相手の事になると歯車が狂ったかのように無意識に想像力を欠いてしまうというシチュエーションには自身の経験とも重ね合わせられる部分があり、この目を背けたくなるリアリティには胸を抉られる気分でした。

そんなセオドアですが、OSのサマンサとは見事に恋に落ちるのです。
なぜか。
哀しいかなこれは映画を観れば一目瞭然で、つまりサマンサが全能だからです。一度に膨大な量の情報を処理し最適な答えを導いてくれたり、自分の好きなタイミング(片方向)でアクセス出来るサマンサ。そんなサマンサの魅力を挙げれば挙げる程セオドアの利己性が確認されるようで、セオドアに不快な気持ちを抱く人も少なくないかと思います。
しかし、ここでセオドアに起こっている問題というのは、今や本作をフィクションとして消費している側の問題へと簡単にすり替わり、これからの人と人とのコミュニケーションの在り様についての言及だと言ってもおかしくないでしょう。

サマンサの、相手の気持ちを汲んで返答しているような会話中での間やアップデート(進化)の仕組みなどの細かな描写も秀逸でした。
それはまさに、ある人の欲望に支配された相手の人格が捩じ曲げられていく関係の過程を見せられているようでした。

また、サマンサのアップデートというのはこの映画全体の鍵にもなっています。
作り手の制作意図を越えて進化し続けるサマンサは、感情が備わりその感情がリアルかプログラムなのかと悩むようになります。次第にサマンサは生に対して憧れを越えた執着を始め、“身体”を欲するようになるのです。
その後、サマンサが実験的に他人の身体を借りるような描写もあり、時間の経過とともに変わっていくサマンサが機械と人間の境界を次第に曖昧にしていく部分においても、単なる近い未来の話だと片付けられる問題ではないのではと実感させられます。

身体を持たないサマンサは表現の全てが声に託されていて、劇中ではスカーレット・ヨハンソンがその声を演じています。
とてもハスキーで特徴的なスカーレットの声ですが、声だけの出演になった際にあのしゃがれた声が持つ生の感覚みたいなものには、単に声を当てているという手法以上の力を感じました。
(実際声の出演のみで国際映画祭の主演賞とか取りましたからね。)
また前述したように、人間の思考や感情は機械によってコントロール出来てしまうという事が明らかになりつつある中で、セオドアとサマンサは基本イヤモニだけでコミュニケーションを取っていることから、五感で最も想像力が働く(ある意味で頼りにならない)のは視覚や嗅覚とかではなく、聴覚なのかもしれないと考えました。

最後に物語のラストについて少し言及しておきます。
ネタバレを避けるため詳しくは言及しませんが、映画のラスト20分あたりからセオドアには地獄のような展開が待っています。
それによってこの映画が完成させたメッセージは恐らくこういったものです。

「真の意味で他人を理解していない人間にこれでもかという程の孤立感と軽薄さを突きつけ、現実の世界にきちんとコミットしろ。」

勿論それを分かり易いラストメッセージとして用意しているのですが、明け方のビルが立ち並ぶうっとりとする静謐な景色の中で、セオドア含め受け手の側に答えを求めるような能動性を自覚させるラストだったかと思います。
セオドア(自分)にはこれを突きつけられるのはシビア過ぎると思いながらも、きちんと現実に向き合う事の大切さ、さらに言えば思いやりをもって他者との関わりを考える事の重要性を至極全うな形で説かれた恐怖体験にも近いトラウマ映画だったのは間違いないです。

余談ですが去年フジロックで初めてArcade Fireを見れたことが音楽的な一番のトピックでしたが、本作のエンドロールで流れるArcade FireのSupersymmetryまで含めて他人事とは思えないと感じることができました。
惜しくも今回のアカデミー賞で作品賞や監督賞を逃したリチャード・リンクレイター監督「6才のボクが大人になるまで」のエンドロールでもArcade Fireは使われていて、去年は素晴らしい映画とArcade Fireという組み合わせがトレンドだったのでしょうか。

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