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美しいということ

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
美しいということ Posted on 2016年4月4日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

不思議なものなのだけれど、ここのところ花を見て綺麗だと思うようになった。
ハクモクレン、ライラック、タンポポ、藤の花などを見ると息を飲む美しさを感じるのだ。

それは、どのような感じ方かというと、有機的で自然な花の中に幾何学的な美を感じ、また、鮮やかな色彩の中に有限性とうつろいを感じるのだ。

これまで花に興味を持ったことはなかったし、むしろオーガニックなものはあまり好きではなかった。
だから、少し戸惑った。
「これは、はっきり言って、年というやつなんじゃないか?」と。

ここから、あらためて気づくことがあった。
それは、当然のことなのだが、「beauty」というのは対象の中にあるのではなく、あくまで観察者のイメージの中、あるいは対象と観察者の関係の中にあるということだ。

上の話で言えば、この10年~20年の間に、花にとびきりの変化があったとはまず考えられない。(もちろん、絶え間ない技術革新や品種改良はあるのだろうが。)

しかし、感じ方が変わったということは、おそらく変わったのは花ではなく、むしろ僕のセンスだろうと判断できる。年月というのは、大きく人を変える。
つまりは、「beauty」というのは対象ではなく認識の中に存在し、変化の中で揺れ動く超越的なものなのだろう。

関連して、思うのは「余白」や「未完成」、「喪失」から生まれる美についてだ。
「余白」や「未完成さ」は、見る人にイメージを思い浮かべる隙をあたえるからこそ、見る側の人を夢中にさせる。
ミロのヴィーナスが良い例だろう。
「喪失」、叶わないもの、失ってしまったもの、過ぎ去ったものに対して感じる眩しさも、内的なイメージに過ぎない。

しかし、そのような、フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』や三島由紀夫の『春の雪』ような、そのような美にはどうしても惹かれてしまうものがある。

そう考えると、花の美しさは、瞬間瞬間の鮮やかさと喪失という四季のうつろい、それが感じさせる時間と人生の有限さという心象、そして、そういった人間の心情を超越したネイチャーのダイナミズムに対する畏敬の中にあるのかもしれない。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。