Posted in 散文 Essay

最近の村上春樹について書かれた文章で「おっ!」となったものを紹介。

物語と想像力がもたらす力というものを自らの手で証明します
最近の村上春樹について書かれた文章で「おっ!」となったものを紹介。 Posted on 2016年10月11日
物語と想像力がもたらす力というものを自らの手で証明します

今年ノーベル文学賞1週間遅れてるんだけど
果たして村上春樹が取るのだろうかというところで、
僕個人としては村上春樹という作家には何の思い入れもないのだが(刊行された小説は全部読んでいて何の思い入れもないのだからおもしろい)もしかすると今年あたりさらっと取る可能性があるのではないかと思っているので、
最近の村上春樹について書かれた文章で「おっ!」となったものを紹介。
※完全なる転載です
もし明後日取ったらみんないいねしてね。
それまではしなくていいから。
➀「ノルウェイの森」と「君の名は。」 東浩紀
ひと月ほど考え続けた結果、ぼくは、「君の名は。」はたいへんな傑作であり、ぼくがいままで擁護してきた価値観を見事に体現した作品でもあるが、いまのぼくとしては絶対肯定できない作品だという結論に達した。言い換えれば、この作品に行き着いたセカイ系の想像力を肯定できないという結論に達した。連動して呟けば、ぼくはいままで村上春樹を高く評価してきたし、それ自体はまちがいでもないと思うが、かつて1990年代、「ノルウェイの森」の後の春樹をなぜ柄谷行人ら『批評空間』派が批判しなければならなかったのか、その理由がようやく理解できた気がした。あれはぼくらから何かを奪うのだ。
村上春樹と新海誠がぼくらになにを与え、かわりになにを奪ったのかは、これから言葉にするように努力する。たぶんぼくは、それを言葉にしないと、前に進めないだろう。村上春樹と新海誠が奪ったもの/奪おうとしているものを、文学と批評は取り返さなくてはならない。そうでないと文学者と批評家の存在価値はなくなる。否、むしろもうなくなっている。ぼくたちは少し真剣にならなくてはならない。セカイ系の問題は、村上春樹の問題であり、政治と文学の分離の問題であり、つまりは「アメリカの影」の問題なのだということをしっかり認識しなと、「セカイ系は平安時代からあった」とか「現代SFはだいたいセカイ系だ」とかになって批評には使えない。ここ大事です。
【雑感】
これ少し漠然としてますけど、社会現象としての「君の名は。」を未だにちゃんと解って読んでるやつ一握りだろうと思いながら新しい小説が出るたびに大ヒットする村上春樹の社会現象の先駆けとなった「ノルウェイの森」を重ねる部分に個人的にピンと来た
②村上春樹総論 坂上秋成
なんか今年は村上春樹がノーベル賞をゲッツする気がするのでちょこっとだけ呟いてみる。とりあえず僕は村上春樹って世界最高峰の作家だと思ってるけど、ノーベル賞って言われるとやっぱ違和感ある。
ひとまず僕は村上春樹の最高傑作って『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(以下、「多崎」)だと思ってるんだけど(たぶん2位が風の歌を聴けで3位が羊を巡る冒険)、春樹の場合、「いかにして多崎に至ったか」というプロセスを考えるのはかなり重要なことに思う。
春樹の場合そもそも売れてしまったことが異常というか、日本文学の流れには全くノらなかった人なんですよね。ってゆーか日本文学マジダルいくらいに思っててアメリカ文学に傾倒して、政治もマジ面倒だからスルーしてふわっとした空気だけ持ちこもうとして初期作は作られてる。そのシラケ感は後追い世代でもなんか分かるというか、たぶん周りが学生運動ウオオオオ!ってなってたら、少なからぬ人はそういうむさくるしいことやめて軽やかに生きたいぜ!と思うはずで、その感覚で『風の歌を聴け』とか『1973年のピンボール』って書かれてると思う。ところが阪神淡路大震災とオウム真理教事件が起きた1995年から「これちょっと軽やかとか言ってるとまずいんちゃう」って思って『アンダーグラウンド』が書かれたと。超雑な言い方だけど、「デタッチメントからコミットメントへ」、つまりは「無関心から社会へ」という転向は本人も明言してる。ただ春樹の場合難しいのは、この「コミットメント」が分かりにくいってことなんですね。たとえば村上にしても龍の方だったら「初めから社会派です!」「なるほど!」みたいになるけど「『ねじまき鳥クロニクル』がコミットメントです」って言われても「ちょっと2時間考えさせてくれ」って感じ。つまりは春樹のコミットメントってのは社会や政治のリアリズムにコミットするものではなく、むしろそのリアリズムの陰で歪んでいく内面をファンタジー化して描くような作業なんですね多分。ねじまき鳥って主人公が悪い人のところにいきなり井戸からワープしたりするわけですよ、現実的ではないわけです。けどおそらく春樹は、「人が祈ると悪い人間のところにワープできてしまうような感覚」こそがリアルで、それを小説の中で表現しようとしていたんじゃないかと思う。このワープって春樹の中で結構重要で『1Q84』でも天悟の精子がふかえりの中にワープしたりするわけですよ。もう少しまとめて言えば、デタッチメントとして軽やかな作品を描いていた春樹が、1995年以降コミットメント男として社会や政治の「悪いもの」を非リアリスティックに描いていく。個人的にポイントかなと思うのは、この「悪いもの」は空間に規制されていないってことなんですね。「悪いもの」はどこかにいるけど、それを直接捕まえることはできないし、どこからやってくるかもどこに潜んでいるかも分からない。一見平和な世界のすぐ背後でとてつもなく「悪いもの」が躍動してるかもしれない。95年以降の春樹作品はほとんどその感覚で作られている。だからこそ、ワープだったり多重世界が重要なものになってくる。95年以前の作品にもこのモチーフは使われてるけど、『アフターダーク』や『海辺のカフカ』や『1Q84』といった近年(?)の代表作って、全部二つの世界を並行して描いてる。そこではある空間の背後に別の暗い空間が常に横たわってるけど正直、95年以降のコミットメントした春樹作品ってほとんどつまんなくて、「社会や世界は目に見える部分の背後にいつも闇を抱えている」ってモチーフに拘泥しすぎて構造が単調になってたり、キャラクターが単なる都合のいい装置(マジふかえりとか精子受け止めるだけよね)になってたりでマズイ。そこで登場したのが『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で、僕がなんでこれを最高傑作と思ってるかというと、春樹的なコミットメントとデタッチメントが見事に収縮しているからです。この作品は二つの世界を描いていない、あくまでもつくるが経験した単一の人生を描写するものです。けどそこには95年以降(+ねじまき鳥や世界の終わり)のコミットメントにおける「複数性」や「偶然性」という問題もしっかり刻印されている。かつて大学時代に突然仲良し5人組からハブられて死ぬことしか考えられなくなった多崎つくるは、十年くらい経ってからその真実に迫ろうとする。で、迫っていく中で自分が仲間のひとりであるシロをレイプしたという疑惑が広がっていたと知って超ショック受ける。しかもシロはまったく別の事件で死んでしまっていてどうしてそんな狂言を吐いたのか知ることもできない。つくるはアカ・アオ・クロという仲間を順に尋ねていくけど深層には辿り着けない。この構造ってもの凄くノベルゲーム的なんですね。コミットメントverの春樹が追及してた物語の「複数性」「偶然性」は二つの世界をひとつの小説におさめることで成立していた。ところが「多崎」では、単一の現実の中に「ひょっとしたら全てが起こっていたことなのかもしれない」という感覚が入り込む。つまりですね、これまではバッドエンドとハッピーエンドを並行して描いてきましたと。ところが「多崎」ではアカ・アオ・クロという各キャラのルートを攻略していくうちにシロルートだけは「どうやってもハッピーにできない」という現実にぶち当たる。そこでは彼は「本当に」シロを犯したのかもしれない。それは誰の責任でもないかもしれないし、ひょっとしたら全員のあるいはつくるの責任かもしれない。ただいずれにしても、この「かもしれない」によって僕たちの生きる現実が作られているというのが「多崎」に込められた思いなのではないかと感じます。今ここにある現実は無限の可能性の束の中から選ばれたひとつだけど、残りの可能性も同時に存在していて、それはとてつもなく「悪いもの」である場合もある。そしてそうした現実が、デタッチメント(私的領域)とコミットメント(公的領域)を「かもしれない」でズラしてるとこに「多崎」の美しさはある。そしておそらくこの小説は「結果的に」春樹自身のスタンスに対するメタ小説にもなってる。かつての無邪気な仲間たちがいた世界(デタッチメント)と悲惨なことが起こって傷を抱えた人間たちがもう一度かすめ合おうと動く世界(コミットメント)を結ぶというのは、95年以前/以降の春樹を繋ぐ作業。「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ」(…)「僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」という最終ページの台詞の力強さ、美しさはそのまま春樹の軌跡にも重ねられるかなと。
春樹がノーベル賞とってもとらなくても自分の中で超いい作家ってことは変わらないんだけど、それとは別に彼が「文壇や政治とは無縁にふわっといくぜ!」というスタンスだけでやってたわけでなく、別ジャンルにも多大な影響を与えつつ、政治的側面を有してたってことは踏まえられるべきかと思います。
【雑感】
春樹論でよく使われる「デタッチメントからコミットメントへ」という説明の中で、彼のコミットメントのスタンスが複雑かつ非現実ゆえに一見上手くいっていないように感じる事実と、それでも彼が向き合ってきた悪の正体の説明が優れている。
それを踏まえての「田崎」評にも納得。
どうして僕が割とすんなり「田崎」を読めたのかもこの構造があったからだろうと気づかされました。
「希望」「革命」としての「オーバーフェンス」と「村上春樹」
このテーマで飲み屋で4~5時間管を巻けるおっさんが近くにいるが割と僕の人生で好位置につける幸せですね。

投稿者プロフィール

宝田 とまり
宝田 とまり
物語と想像力がもたらす力というものを自らの手で証明します

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