キャンバスを汚せ、黒くぬれ – 世界的なポピュリズム勃興の流れを前にして私たちはいかなる態度で臨むべきか –

キャンバスを汚せ、黒くぬれ – 世界的なポピュリズム勃興の流れを前にして私たちはいかなる態度で臨むべきか –

世界的にある種のポピュリズム=大衆迎合主義が席巻している。
それは、ナショナリズムと経済的な自国救済主義を内包した、大衆扇動型の政治であるといえる。

この動きは、2016年現在つとに明確な流れを示しており、アメリカ大統領選でのトランプ氏の勝利や欧州政治の右傾化、フィリピンのドゥテルテ大統領の人権・法律を超越した過激な治世に現れている。

この要因は、ギリシャ・スペインを代表するヨーロッパの経済危機やドイツ・フランスでの移民政策の失敗、そして世界的なグローバリズムの行き詰まりなど、極めて多数の社会的・情勢的な問題に端を発していると考えられる。

しかし、ここでは「ポピュリズム=大衆迎合主義」の席巻の要因は、現代の思想・哲学界隈の潮流の衰退と、人々の中で相対主義があまねく一般化され意思の関係付にとっての基盤が揺らいでいることに問題があるのではないかと提起したい。

なお、これは抽象的で観念的な仮説であり、ひとつの問題提起にすぎない。

 

■ イズム(主義)のキャンバスとしてのタブラ・ラーサ(白紙状態)

企業での人事において、企業はプロパー社員育成のために、大学を卒業したての新入社員を望むといわれる。
これはある意味、他の企業の文化や慣習に影響を受けていない新卒の素直な学生は、自社の文化に染めやすく指導がしやすいということを示す例のひとつの例であるように思う。

つまり、「絵を描くなら白いキャンバス」にということである。

かつて、1990年代にロシアでカルト宗教が急速に広まったことがある。
原因は1991年のソビエト連邦崩壊である。
ソビエト政権の崩壊により、その政治的・経済的混迷の状況の中で人々は生活が混乱するのみならず、これまで信じてきた社会主義の価値観・倫理観そのものが打ち壊された。
そして、不幸にもソビエト政権下では宗教が抑圧されていた。かつてロシアの人々の価値観の中心には、信仰としてのロシア正教があったが、その文化が失われていたのである。
それゆえに、ソビエト崩壊後のロシアでは宗教的な免疫がなく、カルト宗教が急拡大したのだ。

翻って考えてみたい。
私たち、現代に生きるわれわれ一人ひとりは、果たしてなんらかのイズムに対する免疫を持っているだろうか。

 

■ ポスト・モダンとリベラリズムが生んだもの

私たちはどのような思想のもとで生きているのだろうか。
「ふつうの人は、私は主義者ではない。私は思想は持たないし、思想的に傾くことはない。」というだろう。
水の中を泳ぐ魚が海や川について考えることがないのと同じだ。

けれども、人はなんらかの世界観を持って自分の頭で考えて生きているはずである。
脳というハードがあって、なんらかの思想というOSがあって、そして生活のためのソフトウェアを動かしているのだから。

改めて、現代を思想史的に把握してみよう。
現代の私たちの立脚点は2つある。
ポスト・モダンとリベラリズムである。

1980年代、現代思想・哲学の分野において、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』(1979)で「大きな物語の終焉」を説いた。
「大きな物語」とは、かつて人々が物事の正当性や善悪・真偽の基準としていた基盤としての「宗教」や「歴史」や「哲学」であり、現代ではそれらの機能・役割は終わったというのである。
1980年代のフランスは、まさにポスト・モダンの中心地であるが、ポストモダンの根底には硬直化・教義化されたマルクス主義への全面的な否定が存在した。
言いかえれば、マルクス主義の「価値観の絶対化・価値観の固定化」に対するアンチテーゼが「相対主義・個人の主体的自由」を重視するポスト・モダンであったのである。
そして、このポスト・モダンを一般化した「絶対的な基準など決められていないし、すべては相対的なのだ」という主張は、現代の私たちになんら違和感を与えるものではない。私たちはまさにポスト・モダンの延長線上(大きく衰退しているが)にいるのである。

もうひとつ、1990年代、アメリカ合衆国の政治経済学者フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』(1992)で「国際社会において民主主義と自由経済が最終的に勝利し、それからは社会制度の発展が終結し、社会の平和と自由と安定を無期限に維持する」という仮説を説いた。
これが意味するところは、「ソビエト連邦のような抑圧的・暴力的・非民主的な政治の時代は終わり、これからはリベラルな社会が続く。」というものである。
そして、このいわゆるリベラルな「抑圧や暴力は非難されるべきであり、すべて相互の話し合いで民主的に発展させていくべきだ。」ということが普遍的なものであるというのも現代の私たちにとって共有されているものであろう。

現代に思想があるとすれば、このふたつの主張(①「絶対的な基準など決められていないし、すべては相対的なのだ」②「抑圧や暴力は非難されるべきであり、すべて相互の話し合いで民主的に発展させていくべきだ。」)が普遍化されたものであると考えられる。

この思想の帰結は「完全なる相対主義の完成」である。
①「絶対的な基準など決められていないし、すべては相対的なのだ」からは、その論理的な帰結で「すべての主張が許される、ゆえにすべての主張に意味はない」という流れが生まれる。
②「抑圧や暴力は非難されるべきであり、すべて相互の話し合いで民主的に発展させていくべきだ。」からは、終わらない話し合いが生み出され、何の解決策も生み出されないという状況が延々と続くのだ。
ある意味では、現代はギリシャのソフィストの時代のような、空虚な議論だけが存在する、究極の相対主義の時代であったといえる。

そして、「完全なる相対主義の完成」こそが問題なのである。

コンパスは北を指し示すが、北極点にいたると北を示すことができなくなる。そしてすべての方向を見失うのだ。

 

■ 相対主義の弱さとイズムの台頭

さらなる問題は、相対主義の思想を基礎として人々が生きるのは、極めて困難であるということである。
歴史的に見て、たしかに相対主義の時代は存在しただろう。
だが、相対主義が思想のメインストリームを牛耳ったことは、ほぼ皆無であるといえる。

誰が砂上に楼閣を建設できるだろうか。

これは、より個人的に想像してみるとわかりやすい。
家族が、恋人が、自分自身に病や死が迫った時に、運命や神を期待しない人間がいるであろうか。

つまり、何らかの危機が発現した時に、相対主義は葬り去られ、何らかの絶対的な思想が求められるのである。

そして、現代においては、あらゆるイズムはすでにいちど失われており、そのため人々にはイズムへの免疫がない。
誰がポピュリズムに「否」と疑問や異議を持ちうるだろうか。
私たちは、無自覚のうちにすでに絡め取られているということを、誰が否定しうるだろうか。

 

■ 何をなすべきか

まず結論として、ポピュリズムに対する是非はない。
受け入れるのも、拒否するのも、あなたの自由である。

しかし、あるイズムに私たちが対峙するならばその時は、
戦略的にいかなる態度をとるべきなのか。
方針は3つある。

① 歴史・思想・民主的な基礎知識の摂取・共有した上での課題の検討
一つ目は、現代の課題や歴史について、ひとりひとりがきちんと知り、情報を共有して皆で議論するということである。
まず知ること、これは不可欠なのではないだろうか。
何かを知ることで、何かに疑問を感じ、何らかの状況を改善することが思いつくのだ。
しかし、この方針の難しさは、そもそも「きちんと知る」ことの難しさである。
そして「皆がきちんと知り、皆で議論する」というのは究極的に難しい。
知ることは時間がかかり、遠回りなのだ。

② イズムに対するアンチテーゼの提起と議論の発展
二つ目は、あるイズムに対して反対意見を形作り、戦いを挑むことである。
ある意味では、実践的行為であるといえる。
この方針の難しさは、「流れ」に乗っている意見に対する意見は大勢に流されることだ。
流れに逆らうほど怖いものはない。

③ イズムの明晰化による脱構築、帰結の逆転
三つ目は、あるイズムを分析し明確化し発展させ、将来的な方向性まで示すことである。
あらゆる主義や体系は必然的に矛盾を内包している。
そのため、あるイズムに反対するのではなく、むしろ押し進めることの中に機を見出すのだ。

しかしながら、いずれの方針を取るにせよ、まず必要なのは「真っ白なキャンバス」であることをやめることだ。
疑問をもち、何かを知り、経験して、キャンバスを汚すのだ。
主義を持つことは、危険であり、面倒であり、厄介であるが。

最後にシェイクスピアの魔女の言葉を引用しておきたい。

綺麗は汚い 汚いは綺麗 綺麗は汚い 汚いは綺麗
さあ飛んで行こう 霧の中 汚れた空をかいくぐり。

投稿者プロフィール

CoMA
CoMA
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。