言葉のキャッチボールから、シンボリックな社交ダンスへ

言葉のキャッチボールから、シンボリックな社交ダンスへ

この四半世紀において、もっとも発達した技術は何であったかと振り返って、情報技術がその最たるものだという意見を否定する人はいないだろう。中でも、2010年以降のスマートフォンの普及は、人がどこでもいつでも常時インターネットのネットワークと通信し、様々なアプリケーションを日常の私生活の中で利用する時代が来たという意味で、人々のライフスタイルにどれほどの影響を与えているのか測り知れない。

考えてみれば、ヒット曲を生んだドラマ『ポケベルが鳴らなくて』が放送されたのは1993年のことである。
当時の若者は10数文字の数字の文字列を駆使して連絡をやり取りしていたというが、現在では想像するのもむずかしい。

ところで、情報技術の発達した現在において「言葉」を利用しないコミュニケーションが増えている。
例えば、LINEスタンプやInstagramの写真共有がそうだ。
「言葉」での「説明」の省かれた記号で若者はコミュニケーションをしている。

これは高度な言語ゲームであるように思う。
記号でのコミュニケーションが可能であるというのは、コンテクストの共有量が増えたのか、あるいはメッセージが単純化されたのか。

コンテクストの共有量が増えたということはないのではないかと思う。
今の時代にみなが歌えるヒット曲があるだろうか。
むしろ、多様化し分散四散しているのではないだろうか。

であれば、メッセージが単純化されたのだろうかか。
しかし、「言葉」なしでメッセージを伝えることは可能なのか。

ロシア・アヴァンギャルドの絵画やポスターを考えてみれば、「言葉」による「説明」の量とメッセージの伝達力は、必ずしも比例の関係にあるわけではないとわかる。
むしろ、翻って考えると視覚的なメッセージは、言語によるメッセージに比べて、より多くの情報量を含んでいる。キリスト教の教会が、テンペラ画やイコンで布教していたとを考えれば、視覚のメッセージ性の優位は明らかだ。

そう考えてみれば、現代は強力なメッセージが推敲されることなく一瞬のうちに作られ、なおかつその受容の仕方は受け手に委ねられている時代なのかもしれない。
言葉のキャッチボールというよりは、シンボリックな社交ダンスのように思われる。

この状況から生まれる問題があるとすれば、人々が書き言葉を利用する頻度が下がるということ、その結果として、言葉を扱う技術が下がるということだろうか。
それに伴い、複雑な状況を言葉で明確に整理するという能力、つまり言語を持ちいて思考し分析する能力が失われていくのではないかという危惧は抱いてもおかしくないだろう。

あるいは、管理する側からすれば映画のモンタージュ手法が強固に取り入れられるべき時代なのかもしれない。

それに関連して思い出すのがジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984』ですね。圧倒的な管理社会において、主人公は、紙のノートに自分の考えを書き出し整理するという法律違反行為に手を染め、後に思想犯として逮捕されることになる。

しかし、言葉を弄び、ぶつぶつと下を向いている者など、根暗で胡散臭いというのが時代の空気かもしれない。
シンボリックな社交ダンスが、マス・ゲームに変わることないよう願いたい。

投稿者プロフィール

CoMA
CoMA
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。