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絶対的な瞬間について – あるいはニヒリズムの克服について –

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
絶対的な瞬間について – あるいはニヒリズムの克服について – Posted on 2016年12月18日
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

最近、年上の女性と仲良くなり、お酒を飲みながら古典教養や哲学・思想について話をするようになった。

たとえば、カントやヘーゲル、ハイデガーやサルトル、フロイトやユング、プラトンやマルクス、三島由紀夫などについてだ。

つまり、本質や存在あるいは弁証法について居酒屋で雑談するのだ。
きわめて正しいお酒の飲み方であるように思う。
さらに言えば、形而上学自体がある種の人間にとっては、アルコールのようなものなのだけど。

ただ、エリートではなく、アカデミックな世界でもなく、普通のビジネスマンとして生きていく中で、このような友人ができるというのはきわめてまれなことだと思う。
一般的に言えば、哲学・思想というのは、鼻持ちならないもの、いかがわしいもの、敷居が高いもの、その実価値のないものと見られがちだからだ。
現代においては、アナクロニズムにも過ぎる。

彼女と話していて感じたことだが、やはり哲学や思想に夢中になる人には、論理や日常における価値をこえた何かに出くわしてしまったと感じる経験「絶対的な瞬間」というのが往々にしてあるらしい。そこから、形而上学的な本質をさらに追求したいと感じるようになるのだ。

たとえば、ソクラテスがデルフォイのアポロン神殿で「ソクラテスがギリシャ一の賢人だ」というお告げを受けたことがそうだろう。

あるいは、ヘーゲルがイエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオンの凱旋を目撃し「世界精神が馬に乗って通る」と表現したのも、現象をこえた何らかの意味に出くわしたということだろう。

作家の三島由紀夫は、1945年の終戦の詔勅を親戚の家の庭で聞いたという。
そして、家族との日常の中で、終戦という絶対的な非日常の終焉を聞き、そこに不思議な感動を通り越した様な空白感を感じたという。
三島にとっては、それが何かに出くわしてしまった瞬間であったのであろうし、終戦後はそれを問い続けたと自らが語っている。『豊穣の海』の最終巻『天人五衰』のラストシーンはその超越的な瞬間を明晰に記したものだろう。

彼女にとっての「絶対的な瞬間」は、タイを旅行中にメコン川をボートでくだっている時だったらしい。その濁流の水面が太陽できらめく一瞬を目にして、彼女は愛を感じるという神秘体験を経験したという話を語ってくれた。
自然というのは、人になんらかのメッセージを示唆するものであるようだ。

その話を聞いて、僕もある瞬間を思い出した。
僕は、その「絶対的な瞬間」に、大学時代20歳の頃に出くわしてしまった。

その頃の僕は、東京の端にある国公立大学に通っていて、調布の安アパートにひとり暮らしていた。

おそらく、秋だったと思う。大学にはなかなか通わず、多摩川の河原沿いをiPod classicでボブ・ディランを聞きながら、CAMELのタバコを吸って散歩ばかりしていた頃だ。当時は絶望的に未来が見えなかった。単位取得や卒業について考えるのは憂鬱だったし、はじめから関心などなく諦めていた。社会人になることなど考えるのも嫌だった。とにかくいつまでも自由でいたかった。

日が暮れると家に帰り、ウォッカにナツメグを溶かして一口に飲むと、ソファーに横になり乾燥させたアジサイを混ぜたタバコを吸った。当時は、オルダス・ハクスリーやジョン・C・リリーなどの60年代のヒッピーに傾倒していた。憂鬱な気分もいくらか穏やかになり、あるいは高揚した。

ある日、明かりを消したバスルームでチャンダンのお香を焚きながらウォッカを飲んでいると、不思議なイメージが現れた。目の前にあるのは宇宙だった。無であり混沌とした形而上学的な宇宙だった。
あたりを見回すと、その宇宙の中で、人々が回し車の中を歩き続けていた。まるで、車輪の中のハムスターと同じだった。どれだけ歩き続けても決して前進することはない。虚空の上で車輪が回り続けるだけなのだ。それなのに、人々は絶えず歩き続けていた。なぜ人々が歩き続けるのか僕には理解できなかった。歩き続けても意味などないのに。僕は、みんなになぜ歩き続けるのかと尋ねた。誰も答えはしなかった。

すると太陽が現れた。狂おしいほど眩しい、真っ白な太陽だった。
太陽は膨張しはじめた。熱量を大きくしながら、さらに巨大になり続けた。
すべては太陽に包まれた。すべては太陽に焼かれていった。
風が吹いた。その時、僕は生きるとはこういうことなのだと思った。

僕がその体験について話を終えると、「それは多分、悪魔のささやきね。」と彼女は笑った。

けれども、僕はなんとなくすっきりした気持ちになっていた。
ようやく気づいたのだ。
このイメージは、誰かのストーリーをなぞっているだけだと。

それは、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』だった。

ニーチェは、19世紀の終わりに活躍し、20世紀が訪れる前年1900年に亡くなった。
「ニヒリズムが、来るべき2世紀の最大の問題であり、これは、文明の『病』だ。」と語って。

今は、2016年だ。
あれから10年近くたってしまった。
ボブ・ディランはノーベル文学賞を受賞した。
僕は社会人になってまがいなりにもコンサルタントを名乗っている。
いまだに安アパートにひとり暮らしだ。

文明は「病」を克服するだろうか。
確かに相対主義の時代が終える気配はある。
けれど、それは反動に過ぎないのかもしれない。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。