感想 『逃げるは恥だが役に立つ』 「夫婦を超えてゆけ!― 大ヒットと影響の先を考えて ― 」

メリークリスマス。
これから「のん」の映画一人で観に行ってくるけど、これってクリぼっち的なやつなのか。

逃げ恥の感想です。

「夫婦を超えてゆけ!― 大ヒットと影響の先を考えて ― 」

今年、国民の注目を最も集めた民放ドラマといっても過言ではない。
多くの方が話題を共有し、期待を最後まで裏切らず視聴者を楽しませてくれたのにはいくつかの優れた点があったからだと思う。

1、それぞれの楽しみ方・盛り上がり方

このドラマのメッセージは基本的に女性へと向けられていた。そしてその年齢層がドラマが進むにつれて大きな広がりをみせていったように思う。

これは、物語の後半から星野源演じる平匡(36)と新垣結衣演じるみくり(26)のパートに加え、仕事一筋で恋愛に縁がなかったみくりの伯母で石田ゆり子演じる百合(49)のパートを並行して描いたことが大きい。
(※年齢はドラマの設定に基づいている)

それにより仕事や恋に新しい価値観を持つ20代30代のみならず、それより上の世代の女性からの共感を得ることに成功した。
さらに良かった点として、ドラマにメッセージや社会性などを期待していない視聴者にも楽しめる要素が多くあったことが挙げられる。
こちらに関しては、主に配役の妙だろう。

その活動が多岐にわたり知名度も少なからずあった星野源が平匡という役柄を通してお茶の間に一気に浸透した。本人の正体はさておき、典型的な塩顔草食文化系男子・津崎平匡というキャラクターに惹かれた女性も少なくはないはずだ。
一方、相手役を務めた新垣結衣の可愛さが全くもって衰えないこともドラマのメッセージ性を無効化するほどの強烈なインパクトがあった。
この二人のむずがゆい関係性に胸をときめかせた視聴者も多かっただろう。主題歌である「恋」ダンスも人々の心と身体を刺激し、ドラマを大いに盛り上げた。

つまり本作には、そのメッセージを自身に置き換え見られた人、二人の関係やそれに付随する要素を楽しんだ人、社会的意味を分析しながら見ていた人など、多くの人がそれぞれの楽しみ方を見出せるようにできていたのである。

後述するみくりの“小賢しさ”が批評的に捉える社会性や、テレビ番組・アニメのパロディ、最終回で二人の立場を反転させお互いを思い直させることでより強固な関係を築かせるという脚本など、ドラマとしての質の高さを感じる要素が多々あったことも忘れてはならない。

2、ボクらの世代のリスクヘッジとしての“小賢さ”

ドラマ中で主人公のみくりが何度も口にする“小賢しさ”という言葉。
これはみくりのキャラクターを明確に表すキーワードであり、本作における社会的な問いかけはみくりの“小賢しさ”から生み出されたものがほとんどだった。

そう書けばこの“小賢しさ”というのは本作特有のものだったといえそうだが、実はこの小賢しさ(小賢しい女性キャラ)というはある意味で今年のトレンドだったのかもしれない。

その例として、「ゆとりですがなにか」の安藤サクラ演じる茜や「真田丸」の長澤まさみ演じるきりが挙げられる。作品自体の時代観や世界観は異なるものの、共通するものがある。それは、演じた女優の年齢だ。安藤サクラは今年で30歳、長澤まさみは29歳、そして本作の主人公であった新垣結衣は28歳になる。

この年齢は恐らくアラサーという微妙な年齢を迎えた女優たちが役柄として求められている現実的な立場を意味している。
例えば、10代20代の若く愛嬌のある女優が等身大の女性を演じるとなれば、基本的には持ち合わせの華やかさや初々しさを売りに乗り切ることが可能だし、事実そのようなケースは非常に多い。

一方、今年の「ドクターX」さらには「ノンママ白書」などに代表される同性に支持されるアラフォー/アラフィフの姉御キャラは、可愛さや小手先の駆け引きからは開き直り、ありのままを晒すことのできる悟りの境地のようなものが必須になる。
では、みくりに代表される小賢しい女性というのは一体どのような人物だろう。

ティーンにしか備わらないスペックで太刀打ちするには厳しく、かといってアラフォー/アラフィフのように開き直るには時期尚早な彼女たち。
その彼女たちに与えられた武器こそが、徹底的な分析・戦略や相手との実務的な駆け引き、つまり“小賢しさ”といえるのではなかろうか。
社会や家庭において自らの立場を死守するために、女性は次第に小賢しさを習得する。そこには狡猾な狙いや意識の高い野望は見られないように感じる。それどころか、彼女たちはその芽生えた小賢しさと折り合いがつかなかったりするのである。

「ゆとりですがなにか」の茜が不甲斐ない彼氏との関係の中で自立と依存を不器用に天秤にかけ涙したり、本作のみくりもこの“小賢しさ”を自身のアイデンティティと認めつつも行き過ぎてしまうこの性質にためらいや後悔が尽きない。
しかし現代を生きるアラサーの女性のリアルを考えるとここに目を付けたことは正しく、今後もこのようなキャラ造形は増え続けるだろう。

自身が思春期の頃から見てきた若く可愛い同世代の女優たちが女優として小賢しさを求められる時期に差し掛かってきたということは感慨深い。

3、すれ違いとモノローグ

今年大ヒットした映画を選ぶなら、間違いなく「君の名は。」だろう。
興行収入は200億円を突破し、観客動員数は1500万人を超えた。
この映画のヒットの背景には実に多くの要素があったと分析されているが、中でも男女の「すれ違い」のフォーマットを現代に落とし込んだという言及は至る所で目にした。
スマホからネットに接続すれば誰もが手軽につながれる時代に、「すれ違う」という体験がいかに稀有で強く感情を揺さぶる装置となるかが証明された。

実は本作においても「すれ違い」というのは物語の重要な鍵となっている。
加えて、それを下支えする二人の長い長いモノローグが印象的だ。
「君の名は。」では時空を歪めなければ成立させれなかった「すれ違い」を、本作では二人の人間のタイプの違いから主に“精神的すれ違い”という部分から描く。(8話では平匡がみくりの実家に迎えにいくもみくりはマンションに戻って来ていう典型的なすれ違いも用意されていたが)

その二人のすれ違いは実はひとつのきっかけで上手くいきそうなほどにニアミスの連続であることをモノローグ構成で視聴者に説明することで微妙な距離感に緊張感を維持させていたのである。
究極的には人と人とが分かり合うのは不可能に近く、分かり合えないことで反省し次の機会へ活かす姿勢や、ふとしたタイミングで分かり合えるチャンスが巡ってきたときの高揚こそが“精神的すれ違い”の醍醐味であり、いつまでもラブストーリーの定石として重宝されるのであろう。

視聴者側はモノローグで二人の気持ちが見えているので、そこに感情移入することができ、気を遣うという距離の取り方や相手を慮るという態度に共感したり高揚したりするのだろう。ベーシックな手法と言われれば間違いなくそうなのだが、「君の名は。」での冒頭の二人のモノローグの応酬とすれ違いを繰り返す二人が募らせ悩んだり傷ついたりする様は、会えた時話せた時繋がった時大きな喜びとしてドラマとして共感を呼ぶという事が改めて証明された。

4、逃げ“ず”は恥だが役に立つ?

本作の『逃げるは恥だが役に立つ』というタイトルは実にユニークである。
現代の若者や弱者の声を代弁する格言めいたこのタイトルの意味を、特に「逃げる」ということを中心に考えてみたい。

「逃げる」を辞書で引くと大きく分けて二つの意味がある。
➀危険を避けて相手の及ばない所へ去る。身を隠す。
②不利な状況へ陥らないようにする。

要約するすると、➀は「逃走」の意味②は「逃避」の意味となろう。
言わずもがなこのドラマで使われている「逃げる」というのは②のことであり、つまり苦しい方から楽な方へと向かうことと言い換えられる。
そのように考えると、本作のラストで平匡とみくりが二人で話し合って出した結論というのは果たして本当に「逃げ」ていたのだろうか。
当初の設定では平匡はプロの独身男として仕事以外でのコミュニケーションや家事に時間を割くことを極力避けたいと望んでおり、みくりは派遣切りで休職中に家事代行業という自身の思わぬ才能にアイデンティティを見いだしたという消極的な理由から契約関係が結ばれていた。

しかし二人は次第にお互いを意識するようになり、当初の契約の尾を引くシステムを駆使しつつ、時には感情的な合意形成にも目を向けながら最適な落としどころをしっかりと探っていく姿勢をみせる。
最終回では、リストラを契機に契約を解除し正式に結婚するという平匡の提案(プロポーズ)と自身の仕事の掛け持ちで忙しくなったタイミングが重なり、みくりは立ち行かなくなってしまう。
こういった時にもみくりはその小賢しさで持論を展開し、平匡もそれに応じる形で二人は議論と実践を繰り返し、最適な結論に至るために尽力する。

この二人の奮闘は傍から見ればいささかおかしく白い目で見られかねないものなのかもしれないが、個人的にはこの二人の姿は微塵も「逃げ」という言葉を連想させるものではなかった。
話しが少し逸れるが、イギリスのオックスフォード英語辞典が今年の言葉(日本で言う新語・流行語大賞のようなもの)として、
「post-truth(ポスト真実)」というものを選定した。

定義としては「客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況」と説明されている。
この傾向が良いのか悪いのかは別として(私は圧倒的に絶望しているが)、今世界レベルにおいて人々の思考は停止し既存の価値を疑わず感情に訴える要素が判断の基準のほとんどを占めてしまっているという事実がある。

そのような時代の中で徹底的な合理主義者の平匡と確かな批評眼と分析力を兼ね備えたみくりが時に変化を厭わず自身の立場を反転させ客観的に在りながら相手を慮り既存の夫婦の概念を超えてゆく姿には現代の病を治癒する一筋の希望が差しているようにすら感じた。
本作の最終話で百合が男性を巡って敵対視されている若い女性に言った台詞が印象的だった。

「私たちの周りにはたくさんの“呪い”がある。あなたが感じているのもそのひとつ。自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい。」

ここでいう呪いとはすなわち変える事のできない残酷な真実のことだろう。
世の中は残酷な真実で溢れかえっている。目の前の面倒を背負うことなくそこから逃げるというのも今を生きる人々には大きな武器になるが、その際ただ思考停止し感情に流されるだけではなく一度立ち止まって深く考えてみる事、その時隣にそれを理解してくれる自分の愛する人間がいることがいかに幸福なことだろうか。その溢れんばかりの幸せでみくりが平匡を突然抱きしめた神社でのシーンは号泣ものであった。

これからも二人にはささやかであっても逃げずに戦う姿勢を貫いていって欲しい。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。