現代中国を描く大河ドラマ 小説『兄弟』/映画『山河ノスタルジア』

2017年も残りわずか数時間となった。
今年は近年稀に見る激動の年であった。

アメリカではポピュリズム的な現象を背景にトランプ政権が発足、フランスではマクロンに敗れたがマリーヌ・ル・ペン率いる国民戦線が躍進。

ヨーロッパでは、イギリスのメイ首相がEUに離脱を通知、スペインのカタルーニャ地区は独立を宣言した。

中東ではイスラム国は事実上の崩壊。
しかし、アメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことから多数の抗議活動が起きている。

アジアでは、フィリピンのドゥテルテ大統領が麻薬撲滅キャンペーンを実施し超法規的殺人が行使され、マレーシア・クアラルンプール空港では北朝鮮の金正日総書記の長男である金正男が暗殺され、ミャンマーはかつての民主化運動の旗手アウンサンスーチーによる新政権のもとロヒンギャは混乱に陥っている。
そして、日本では飛翔体が定期的に飛び越えている。

他方、経済面は数値の上ではバブルとも思える好調であった。
世界的に各国の経済は軒並み好調、日経平均もかつて1992年のバブル崩壊前の水準に上昇。
また、仮想通貨の価格は10倍にも100倍にも高騰した。

そのような状況の中で、ひときわ存在感と彩色を放っていたのは一帯一路国際フォーラムや中国共産党第十九回全国代表大会を開催した中国であったかもしれない。
現在の中国は、かつてのソビエト連邦-第三インターナショナルや日本の夢見た満州国-大東亜共栄圏のような、東の中心・大国としての存在感を増している。


今年、自分にとって大きな影響を与えたのは前半は香港や台湾(中華民国)など東アジアを旅行したこと、後半は中国本土出身の女の子と友人になったことだった。

彼女は、ほぼ同世代の1988年の中国生まれ。僕は、1987年の日本生まれ。その世界観・パースペクティブには大きな差がある。

一方で、改革開放と天亜門事件以後の社会主義市場経済とその発展の中で育った彼女には(実際には中国の同世代の彼ら・彼女らには)明るい未来が見えるだろう。
他方で、1987年の日本生まれの僕らは、バブル崩壊、オウム事件、失われた20年の中を生き、リーマン・ショックや年越し派遣村の報道を見ながら就職活動を行い、社会人になると東日本大震災や福島第一原子力発電所事故を見てきた。
それは見えるものは異なるだろう。

とはいえ、個人的な関係は、文化・制度・国家を超えたところにある。
はじめは好奇心から始まり、次には差異を感じながら、次第に共感を抱くようになる。

その中で、今年はいくつか現代の中国を描いた作品を読んだり観た。
特に印象的だったのは、余華の小説『兄弟』とジャ・チャンクー監督の『山河ノスタルジア』だった。

余華『兄弟』

カンヌ映画祭で鮮烈な印象を残した張芸謀の『活きる』。
その原作者である中国文壇の気鋭、余華が十年ぶりに発表した長編小説『兄弟』は、中国に大議論を巻き起こした。軽薄! ソープドラマ! ゴミ小説! 文学界の猛批判をヨソに爆発的なヒットとなった本書は、文化大革命から世界二位の経済大国という、極端から極端の現代中国四十年の悲喜劇を余すことなく描ききった、まさに大・傑・作。
これを読まずして、中国人民(と文学)を語るなかれ!

1966年――文化大革命が毛沢東の手ではじまった。
隣人が隣人をおとしいれるこの恐怖の時代に、出会ったふたつの家族。
男はやさしい男の子を連れ、女はつよい男の子をつれていた。
男の名は宋凡平。子どもの名は宋鋼。
女の名は李蘭。子どもの名は李光頭。
ふたつの家族はひとつになり、宋鋼と李光頭のふたりは兄弟になった。
しかし、時代はこの小さな家族すら、見逃しはしなかった――。

『山河ノスタルジア』

第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品!
『長江哀歌』(ヴェネチア国際映画祭金獅子賞)、
『罪の手ざわり』(カンヌ国際映画祭脚本賞)の名匠ジャ・ジャンクー監督最新作!
時代を越えて変わらないもの―母が子を想う気持ち、旧友との絆、そして生まれ育った故郷の風景。
その全てが愛おしくも哀愁に満ち溢れ、世界が賛辞を贈った壮大な叙事詩。

過去、現在、そして未来。ずっとあなたを想いつづける。

急速に発展する中国の片隅で、別れた息子を想いひとり故郷に暮らす母。
息子は異国の地で、母の面影を探している。
母と子の強い愛から浮かびあがる、変わりゆくこの世界。変わらぬ想い。

1999年、山西省・汾陽(ルビ:フェンヤン)。
小学校教師のタオは、炭鉱で働くリャンズーと実業家のジンシェンの、二人の幼なじみから想いを寄せられていた。
やがてタオはジンシェンからのプロポーズを受け、息子・ダオラーを授かる。
2014年。タオはジンシェンと離婚し、一人汾陽で暮らしていた。ある日突然、タオを襲う父親の死。
葬儀に出席するため、タオは離れて暮らすダオラーと再会する。

タオは、彼がジンシェンと共にオーストラリアに移住することを知ることになる。
2025年、オーストラリア。19歳のダオラーは長い海外生活で中国語が話せなくなっていた。
父親と確執がうまれ自らのアイデンティティを見失うなか、中国語教師ミアとの出会いを機に、
かすかに記憶する母親の面影を探しはじめる―。

現代の中国を描く2つの大河ドラマ

大きな意味では二つの作品には重なるところがある。

ひとつは、このどちらの作品も中国の現代を壮大に描いた大河的作品であったということだ。
『兄弟』は文化大革命〜現代までの中国の姿、『山河ノスタルジア』は1990年代〜2025年の中国の姿が描かれている。

中国の発展のスピードはヨーロッパや日本の現代とは異なる圧倒的な展開とスピードで歩みを進めている。その発展は、新しくより良い未来を手に入れるということは、しかし同時に、古いものを捨てることをともなっている。
この2つの作品の中で描かれるのは、中国の発展が勝ち取ったその栄光と古き良き家族との離別であった。
それはかつて、木下恵介監督が『日本の悲劇』で描いたような、ある種の悲劇である。

もうひとつ、この2つの作品に共通していたのは作品のモティーフとして三角関係が描かれていることだった。2人の男、1人の女。
2人の男は友人であるが、1人の女を同時に好きになる。強い男と、優しい男。女は最終的に強い男を選ぶ。(あるいは選んでしまう。)
言われてみれば、これは文学的にはよく見られるモティーフかもしれない。夏目漱石の『こころ』に見られる先生とKとお嬢さんの三角関係。村上春樹の『風の歌を聴け』や『ノルウェイの森』に見られるような三角関係。
そこで描かれる2人の男は「近代化・高度経済成長の時代」と「古き良き時代(ノスタルジー)」を表しているのだろう。

近代化や高度経済成長にはある種の喪失とノスタルジーが必要なのだろうか。
『山河ノスタルジア』のラストシーンはとても美しく印象的であった。
それでも、音楽は鳴り、人々は踊り続け、時代は流れる。

映画『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』 を観る。

物語を語ることの意味を真摯に語り切った物語に、日本文化の死生観と情緒を再発見させる映像の美しさに、音楽に、何度も泣かされてしまった。
こんなにも夢中になれる映画に出会えるとは。

主人公のクボは、三味線を鳴らして折り紙を操ることのできる不思議な力を持った隻眼の少年だ。
彼は三味線の演奏と動く折り紙の人形で「月の帝に立ち向かったサムライの物語」を語って村の人々の人気を博していた。
しかしクボはいつも結末まで語らずに物語を中断して帰ってしまう。
実は、クボ自身もその物語の結末を知らないのだ。

それは、彼と二人暮らしの母親からいつも聴かされていた、彼の一族にまつわる物語だった。

月の帝はクボの祖父でその娘であるクボの母親とクボを守るために戦ったサムライがクボの父親だった。
クボの片目がないのは生まれてすぐに祖父に奪われてしまったからだという。
クボは母親から物語を聴かされるのが大好きだったが、母親は夫を失ったショックからかその結末が記憶から失われていて最後まで語ることができなかった。

クボの物語が大きく動き出すのは村の祭りの晩、日が沈んでから外に出てはいけないという母親との約束を破ってしまったクボを母親の妹たち(闇の姉妹)が攫いに来た時だ。
もしかしたらこの瞬間までは、母親に聴かされていた物語はクボにとってはまだ絵空事にすぎなかったのではないか。というか、現実と物語が未分化で、月の帝も父親も真実性は疑わなくとも現実という実感はなかったのではないか。
闇の姉妹の襲撃は物語が現実との隔てる境界を食い破って侵攻してきたとも言える。
そのきっかけが昔話や童話でおなじみの「禁忌を破ってしまったために報いを受ける」というあらすじをなぞっているのも面白い。

闇の姉妹に捕まりそうになったクボは母親が命を振り絞って使った力で「最果ての国」へと逃がされる。
その場所は見渡す限り雪に覆われた、人間の気配すらない異郷だった。
クボは月の追手から身を守るため、母親の最後の力で木彫りの人形から変身したサルと、クボの父親の家臣だったという確信以外何の記憶も持たないクワガタの三人で不思議な力の込められた三つの武具を集める旅に出る。
クボが物語と現実を行き来するキャラクターであることは冒頭から示唆されている。
彼が母親と暮らす小島?と村は海で隔てられている。
クボに物語を教え、自身も月の帝から逃れてきた(物語側の人間である)母親が村の住人と顔を合わせることはない。
村と小島、二つの世界の境界線である橋を渡ってクボは毎日、母親から聴いた物語を村に届け、村で見聞きしたものを母親に届けている。

この作品はファンタジーだ。

クボの不思議な力も最果ての国での冒険もみな映画の中では現実である。
だが一方で、こんな風にも考えてみたくなる。
木彫りの猿が化けた喋る猿、クワガタと人間がくっ付いた武者、月の都の不死人、そんな存在がこの映画の現実に本当に存在しているのだろうか。
この映画の世界はクボの育った村と最果ての国しか描かれない。
さらに、最後の武具を求めて村に帰ってきた時、村人たちは家も建て直さずに隠れていた。
村は焼き討ちにあってからあまり時間が経っていないようだった。
クボが長い旅から戻ってきたにもかかわらず。
それに、一行が探している三つの武具はクボが母親から教えられ、村の人たちに語って聴かせていた物語に登場するものだ。

なんというか、虚構と現実の遠近法が崩れていく印象がある。
物語と現実に不思議なねじれがある。この旅は夢の中の出来事に近いのではないか。最果ての国は現実の場所ではないのではないか。
もしくは、虚構と現実の境目が限りなく薄れ、クボは自分が語ってきた物語の中で冒険をしていたのでは。そんな風に感じた。

「語り継ぐ」こともまたこの映画のテーマである。

物語はそれだけで独立して在るのではなく、それぞれの物語が繋がったり重なったり、時に対立したりする。
三つの武具を集め月の帝と対決するクボの冒険は、中断していた両親の物語を受け継いで結末を付けたとも言える。
人は死んでも思い出を語る者がいる限り生き続ける、とは残された時間を悟ったサルにクワガタがかけた言葉だ。
その話を聞いた誰かが別の誰かに語り、それをまた別の誰かに…(以下繰り返し)という具合に。語り継ぐことはいなくなった人の思い出を生かし続けること。
語り部は、いなくなった人の思い出を残された人に届ける。
あの世とこの世をつなぐ。最後の戦いでクボがシャーマン的な力を見せたことにもそれは表れている。

クボにとってこの冒険は、両親を心の中で生き続けさせるための思い出作りでもあったのであろう。
というのは、村の祭りの日、クボが墓(に見立てた石)に語りかけても何の反応がないのに(ないに決まっているが)、祖母に会えたとはしゃぐ子どもがいるという描写があったからだ。
その子どもは心の中に祖母との思い出があったから声が聞こえたという気持ちになれたのではないか。
それに対してクボには父親との思い出が無い。母親に聴かされる物語の勇敢なサムライとしての姿しか知らない。戦っていない時の本当の父上はどんなだったの?と尋ねても母親は答えられない。
だからこの不思議な旅は、既に喪われていた家族が異形(物語のキャラクター)の姿を借りて初めて得ることのできたつかの間の幸せな時間だった。

それにしてもこの物語は11歳の少年にとってあまりに過酷だ。
生まれてすぐに片目を祖父に奪われた。叔母たちとの戦いは容赦のない殺し合いだ。
そして、冒険のさなかで両親を再び喪い、仇である祖父を赦して共に生きていくしかない。
月の帝との決着は賛否ありそうだ。
物語でけじめをつけるという考え方は素晴らしい。村人たちの対応は無理があるような気がするが…。
死ぬ直前の祖父に「真実」を語って聞かせるという復讐もありえるのではないか。
クボはきっと最後まで嘘の物語を貫き通すのであろうが。

そういえば、クボの夢に現れた月の帝は盲目の琵琶法師だった。
語り部のモチーフはここにも表れている。月の人間は月の人間で、地上とは異なる美意識の物語を奏でていたのかもしれない。
最後の戦いで三つの武具が役に立たなかったのは、それがあくまで「三つの武具を集めた侍が月の帝と戦う」という祖父に支配された物語の産物でしかないからであろう。
クボはその物語の外に出て、語り部として人々の思い出(=何よりも強い物語)で立ち向かったから祖父の物語を破ることができたのだ。
 

メモランダム

・折り紙について。同じ正方形の紙なのに鳥にも武士にも蜘蛛にもなる。扱い方さえ熟知していればどんな形も表現できる。言葉と同じだ。
・闇の姉妹は、雪女モチーフだそうだけど、和風な意匠と西洋の魔女をうまく重ねている気がする。
・実物の人形を動かしているところを映したエンドロールは衝撃だった。CGとの兼ね合いも含めて、あれこそまさに特撮だと思った。

読書好き必見!インドア派におすすめする10冊の本

読書週間は過ぎてしまったが、読書好きにおすすめする10冊の本を紹介。

紅葉の季節でもあり、クリスマスの季節が近づいている現在、街や公園には人が溢れています。
しかし、充実した生活とはなんだろうか。

この秋冬インドア派におすすめしたい10冊の本を紹介。

『トリストラム・シャンディ』(ロレンス・スターン/岩波文庫)

語り手が自分の一代記を語ると言いながら出生にすら辿り着かずに終わる小説。本文の九割以上が関係ない話をしている。いきなり自作解説を始めたり、真っ黒なページやまだら模様のページが次々挟まれたり、粗筋を線で表現したり。

『エンジン・サマー』(ジョン・クロウリー/扶桑社海外文庫)

文明崩壊後の地球を叙情的かつ象徴的な文体で描くボーイミーツガール。この作品そのものが物語を語る物語であり、メタフィクションという形式でしか表せない恐怖と悲しみと切なさがある。物語と語り手は絶望的に隔てられている。

『ロクス・ソルス』(レーモン・ルーセル/平凡社ライブラリー)

マッドサイエンティストが自分の発明品を見せびらかすだけの幸福な小説。手品をやるそばから種明かししていくような話なのに、それがひたすら愉しい。馬鹿丁寧さが非現実を現実に変えていく。

『黒い時計の旅』(スティーヴ・エリクソン/白水Uブックス)

ここにはすべてがある、と思わせる作品は貴重だ。一人の人間の愛と憎悪が一つの世紀をまるごと飲み込む。「読むこと」と「書くこと」が歴史を切り裂いてもう一つの宇宙を生み出す。情念と知性が奇跡的に調和した小説。

『重力の虹』(トマス・ピンチョン/新潮社)

わからなくても、読めなくても問題ない。この小説を体験するのは言葉の通じない国で迷子になるようなもの。読み解くカギが多すぎるせいでかえって読解困難になり、読者は「パラノイア」に陥らざるを得ない。その混乱が不思議な熱を生む。

『魔女の子供はやってこない』 (矢部 嵩/角川ホラー文庫)

スプラッターなジュブナイル&魔法少女。全編異化と言わんばかりに俗語と堅い紋切り型の入り乱れる文体。悪趣味を通り越して馬鹿馬鹿しいグロを連発しながら、意味のわからないタイミングですごくまともなことを言う。刺さる人には泣く程刺さる

『影を踏まれた女』(岡本綺堂/光文社文庫)

端正な語り口と不可解さが魅力の怪談集。怪異と因縁が繋がらない。何かが欠けていたり、何かが余計だったり。語り終えても暗闇は暗闇のままそこに残される。

『阿房列車』(内田百閒/新潮文庫ほか)

どうでもいいことを言い、曖昧な返事をし、なんとなく会話が途切れる。グダグダであることをこれだけ愉快に書いた文章をほかに知らない。

『クラゲの海に浮かぶ舟』(北野勇作/徳間デュアル文庫)

これも物語が語る物語。おかしくて、かなしくて、ぶよぶよしている。怪獣(映画)の夢も詰まっている。

『奇々耳草紙 呪詛』(我妻俊樹/竹書房文庫)

我妻俊樹の作品は実話怪談というジャンルからはみ出た変な話ばかりなのだけど、この本に収められている『歯医者へ』は特に凄い。読んでいるこちら側の現実すらぐらつかせる。これが恐怖だとして一体何の恐怖なんだろうと戸惑う。

映画『ローガン・ラッキー』を観る。

このお話は欠けたところから始まっている。
主人公のローガン兄弟の兄ジミー(チャニング・テイタム)は工事現場で働いていたが、膝のケガを理由に解雇されてしまう。
一人娘も別れた妻の新しい家族と暮らしている。
彼の弟クライド(アダム・ドライバー)戦地で片腕を失い、今はバーテンダーをやっている。
ローガン一家は不運の家系だというのがクライドの口癖になっている。

仕事をクビになり、娘のコンテストの日にちも間違えてしまう、悪いこと続きのジミー。
弟の店で飲んでいるといけ好かない経営者と喧嘩になる。
騒ぎの中、彼は弟に「カリフラワー」と告げる。これは強盗計画決行の合言葉だった。

ジミーの家には彼が考えた強盗計画10か条が貼ってある。
弟は言う、もうこんなことからは足を洗いたい、でも兄が苦手な知恵を絞ってこの計画を立てたのはわかるし、朝食を作ってくれた、自分好みの焼き加減にしてくれた、だから話は聞くよ、と。ここの場面が好きだ(そしてジミーの焼いたベーコンが美味しそうだ)。優しくて、なんというか「キュート」な、この映画の性格が現れているようだ。

ここから、今は服役中の爆破のプロであるジョー(ダニエル・クレイグ)や彼のバカ兄弟とチームを組み、現金強奪作戦が始まる。
ジミーとクライドとメリー、そしてジョーと彼のバカ弟2人。2組の3兄弟で構成されたチームというのが面白い。
皆家族のため、誰かのために何かをやろうとしている。とんでもなく頭の悪い登場をしたジョーの弟たちだって、彼らなりの「倫理」がないと動かない。たとえジミーとクライドの「エロい妹の復讐」でも。

この映画は「家族」と「お仕事」の話だ。そして、なんというか、一見何もなかったように元に戻るけど、何かが少し違っている、少しだけ、良いものを手に入れている、そういう話でもある。
彼らの計画は成功するが、手に入れた金を「ほぼ」全額返してしまう。
脱獄していたジョーとクライドは、何事もなかったように刑務所に戻る。なにも変わらないじゃないか、そんなことはない。彼らが手に入れたものを種明かししていくラストが心憎い。

冒頭でジミーが娘に語って聞かせる『Take Me Home, Country Roads (故郷へ帰りたい)』にまつわるエピソード、指を骨折して演奏ができないジョン・デンバーが贈られて、感激して朝まで歌っていたというこの曲のように、何かを失った人達に向けたささやかな贈り物なのだ。この「犯罪のプロ集団」とは程遠い素人たちがやってのけた事件は。

映画『GODZILLA 怪獣惑星』を観る。

映画『GODZILLA 怪獣惑星』を観る。
「人間ドラマ」偏重の作劇も、ハルオのキャラクターも、アニメ特有の演技も、予想していたほど気にはならなかった。
登場人物のバックボーンを省略する語り口は『シン・ゴジラ』以降の物語だと感じる。
とはいえ、地球に降り立つまで数十分は、狭い場所で動きも少なく、間延びした印象は否めない。

3部作の1作目というよりは、2時間映画の冒頭を89分に引き伸ばした感じだ。
「怪獣」が登場するのは後半、ゴジラに至っては終盤も終盤でようやく姿を見られる。
だが、どういうわけか、待ちに待ったという気がしない。
気が付いたらそこにいた、という感じで、背景の中の異物になっていない。

これがアニメでゴジラをやるということなのかなと思う。
現代SFアニメのフォーマットに、ゴジラという記号(巨大で、熱線を放つ人類の敵)を乗っけた物語を語りたいのであって、特撮を再現することは考慮に入っていないのか。

じゃあ特撮っぽいとはどういうことなのかと考えた時にまず思いついたのは、現実にあるわけがない(≒作り物)という異物感と、同時にそれが本物に見えてしまう現実感を行ったり来たりする、虚実のあわいの表現だ。
怪獣は作品世界から多少は浮いていなければいけないというのだろうか。

『怪獣惑星』では、大きいものが大きく感じられないのはゴジラだけでなく作品世界にも言えることで、宇宙をさまよい地球を奪還する話がハルオ個人の執着だけで語られて、とてもスケールが小さくなってしまっている。
ただ、生き残った人類の総数やゴジラに支配された地球という環境を考えれば、物語の狭さはそんなにおかしいとは思わないし、衰退しきったさらに先、いわゆるポスト・アポカリプスという趣もあるので嫌いではない。

アニメならではの良いところといえば人間対ゴジラの接近戦闘を違和感なく描けることだ。
核弾頭100発以上喰らって無事なゴジラに単身突っ込んでどうするんだというツッコミにもちゃんと答えを用意している。(とはいえ、ゴジラ×メガギラスの方が、ゴジラに人間が飛びつく描写で巨大感を出せていた気がするのだが。)

グダグダ言ってしまったけどゴジラと戦うことすらできずに捨て去られたメカゴジラを2万年ぶりに起動して再戦するのはめっちゃ熱いので続編は楽しみにしてます。
地球脱出時のゴジラを基にしているだろうからサイズ差が大変そうだが。

映画『全員死刑』を観る。

すっげえの観た。『全員死刑』ここまで面白いとは。『悪魔のいけにえ』を思い出させる禍々しさと笑い。どう考えても笑う場面じゃないところで恐ろしくくだらないギャグをかます。凶悪なまでにシームレスで未知の感情が喚起される。センスの塊だよ。

なんていうか戸梶圭太の小説の「激安」って概念を思い出すな。人命も思考も行動も、人生として想像できる範囲にあるもの何もかもが安い。

被害者宅の庭の手入れされてない感じとかモーターボートとかリアル過ぎるんだよなあ…。皆だいたいワゴン車だしコンビニはヤマザキショップだし。地元で撮ったのかと思うくらい。

「洗練されてない」ってことをセンス良く撮るのがヤバい。そもそも題材が題材だし。ひたすら安くて愚かで酷いのに、しかしこれは純然たるエンタテインメントなのだ。それもコメディである。

ハイローファン的には一ノ瀬ワタルが「鬼邪高の関ちゃん」としか形容できない役で出演しているのもポイント高い。「良くない就職先」潰せなかったんだね…。

映画『予兆 散歩する侵略者 劇場版』を観る。

映画『予兆』を観てきた。
『散歩する侵略者』の裏面であり、侵略の物語は当然こういう顔も持っているということを思い出させられた。
前作のオフビートな愉快さは鳴りを潜め、人間の弱さと、得体が知れないことを画面に映し出す表現に比重が置かれている。
体温を奪われる、あの世が侵入してきたような映像に目が離せない。
終末の、光りも熱も遮る曇り空を見て、やはり黒沢清の怪獣映画を観たいと思う。

それはそうと宇宙人は天野くん達のチームだけじゃなかったんだな。当たり前か。
歩くだけで人がバタバタ倒れていくのが東出真大のオーラに圧倒されているみたいで面白かった(『散歩する侵略者』の怪しすぎる神父とは全く関係なかった)前作の「概念を奪う」行為は、加瀬真治という人間の人格や鳴海との関係の再構築をもたらすものとして、ある意味肯定的にも描かれていた。
今作でのそれは、奪うことの恐ろしさと、どうしようもなく弱い人間の悲しさを浮き上がらせるものになっていた。
「愛の概念」は今作でも重要な存在だが、こちらも人間の弱さと残酷さの源、という性格も帯びている。

概念の扱いには必ずしも納得のいくものばかりではないのだけれど、「死の恐怖」を奪った真壁がビルの屋上の柵を越え、存分に恐怖を楽しんでいる場面(奪った概念を純粋に楽しむ描写ってここだけじゃなかろうか)は、ホラーというジャンルに対する自己言及のようで気に入っている。
人間は恐怖という情動に快感を覚えることができる、だから観客のあなたもこの映画を観ているのだ、と。

また、粒子の粗い空の不穏さと、鏡やガラスやカーテンなど何かを介して見せる画が印象に残った。
何かを通過して観る光景は、そこに何かいるかもしれないという感覚を引き起こす。
それは幽霊と同質のものかもしれない。
真壁がすぐに来るわけないのに玄関の扉に怯える二人の姿はとても納得がいく。

ドラマ『この声をきみに』最終回

ドラマ『この声をきみに』最終回
地震・衆院選・SP番組で計3回も飛ぶという不運に見舞われながらも最後まで丁寧に作られていた秀作。
大森美香の脚本が決定的な仕事をしていたと思う。
大森さんはNHKで書くようになってから全くというほど外さない。今回もNHKでないと描けないような繊細な話。

内容を要約すると、自らの主義に固執するあまり家族から見捨てられた数学者が職場で行けと言われた自己啓発セミナーの先生と出会い人生を見つめ直す話しで、凝り性の人間が綺麗なセミナーの先生に弱った心を癒やされ丸くなっていく話だったらヤバいなと思っていたのだが、勿論そんな浅い話ではなく。

麻生久美子演じる自己啓発セミナーの先生は朗読教室の先生もやっていて、ここから朗読というコアなテーマが導かれる。
主人公の数学者は言葉や声を媒介にゆっくりとつながりを模索していく一方、実は先生の側がそれ以上の問題を抱えていることが発覚する。
シンプルだけどこの逆転が効いている。

人に何かを教える側の人間がその事に確信が持てなくなる苦しさ。
特に今回は“朗読”を着想に、目に見えない言葉や声で人と人を繋いでいくという話だったので、余計にその苦しさや虚しさが際立つ。
そんな状況においても、人は目に見えないものを信用できるか。

ドラマの最後のシーンではそこへの言及がある。
金儲けや世界平和・病気を治したり犯罪を抑制するのには役に立たないかもしれない“美”と“感動”の探求が、人の喜びのためにあると。
「生まれてきて良かった」と思える瞬間を、目に見えないものから感じ取る豊かさことが、人生なんだと。

数か月ぶりに再会した数学者は今日が誕生日だと先生から唐突に打ちあけられ、耳元でこうささやく。「この声をきみに」
その瞬間、目に見えない声は贈り物になり、ささやくために交差した横顔は唇を重ねた場面を想起させる。
決して目には見えないが、それを信じて繋がる人と人の形がそこにはあった。

『恋妻家宮本』を観る。

『恋妻家宮本』を観る。
ずっと映画を撮りたいと公言していた遊川さんの作品だったから期待していたんだけど映画館には観に行けなかったのでDVDで鑑賞。
良かった。てっきりオリジナル脚本だと思っていたら原作は重松清の「ファミレス」という作品で、ただ調べてみると原作と設定が変わっている部分もある。

遊川さんの映画に対する真摯さが伝わってくる王道の展開や場面が満載で、そのオーソドックスなつくりの中で、脚本家としての人間を描く力が存分に発揮されていた。
プロットよりも台詞に重きを置いた本作はとてもテレビドラマ的なんだけど、それが映画に置き換えられると証明した遊川映画の誕生だと思う

遊川さんといったらバックグラウンドありきのキャラ設定と建前抜きの鋭い本音がひとつの特徴のだけど、本作は子の手が離れ再び二人での生活がスタートしたありきたりなアラフィフ夫婦の話。
夫婦関係の再確認を起点に、周囲の人々の問題を絡めつつ最後には冒頭と同じファミレスのシーンに戻っていく。

たった2時間のこの一周で27年間の夫婦生活の意味やパートナーの存在意義を過不足なく物語として成立させちゃうんだからすごい。
ひとつ具体的な内容に言及すると、重要な台詞として出てくる「正しさ」と「優しさ」というのは息子の「正」と「優一」の選択のから夫婦に課せられていて、作品内では妻が「正」とつけたとなっているが、そこにはこれまた作品で言及されている夫の優柔不断さが絡んでいて、当時はそこにコンセンサスがあったか分からないしそれが良い選択だったかなんてのも分からない。

ただ、重要なのは27年経った今「正しさ」よりも「優しさ」だと気づいたこと、夫が自らそれを選択し、妻へ合意形成を取ろうとしたこと。
些細ではあるんだけど人と人が一緒に生きていく上で意外と外せないことを設定やストーリーを壊すことなくサラッと描いてしまう遊川さんらしさに感動した。遊川映画、遊川ドラマと同じくしてこれからも楽しみです。

『ブレードランナー2049』を観る。

『ブレードランナー2049』を観る。
立派な続編だと思うが「ブレードランナー」ではないというか、前作にそれほど強い思い入れは無いので、これはこれで素晴らしかったのだが、やっぱり上映時間は長く、もうちょっとやりようがあったのではと思ってしまう。
主演のライアン・ゴズリングは『ドライヴ』の次くらいに好きなゴズリングだった。

『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』の決定的な違いは湿度だ。
雨に煙る猥雑な電脳都市に対して、灰が降る曇天の荒れ地。
『2049』では、水分も生命も感じさせない白茶けた大地の美しさに比べて、雨や波といった水気の多いシーンが奇妙に嘘臭かった。

むしろ、『ブレードランナー2049』は殺菌乾燥した画づくりが指向されているのだろう。
だから前作を模した雨の街の情景が作り物めいて見える一方で、砂と灰の積もる人気も水気も無い空間がたまらなく美しかった。

だから、この作品には「雨の中の涙のように」という言葉はなく、代わりにあの場所でのラストシーンがある。

とはいえ、『2049』はディック的に良いところもあって、ラストの自分がニセモノでしかないと知りつつもデッカードを娘の元へ送り出し独り死を待つKの姿は、自分自身や世界に対する諦めと肯定の入り混じった「もういい」という声が 聴こえてきそうな美しいシーンだった。

Kの部屋にナボコフの『青白い炎』が置かれていたのがすごく気になった。ジョイがこの本嫌いと言うのも。 『青白い炎』は架空の長編詩に(狂人とおぼしき)語り手が好き勝手な注釈を付けて荒唐無稽な自分語りを始めてしまう小説(なんて要約したら怒られるかな)で、この語り手のキンボート氏は思い入れのあまり作品を歪めて解釈してしまう読者を皮肉ったような人物なのだけど、これは『ブレードランナー』という正典に対する『2049』からの謙遜や自虐なのか。

あるいは、『青白い炎』における作者と読者の関係を人間とレプリカントに置き換えれば、読者の読みが作品から作者の地位を奪ってしまうこの小説は、被造物が生命を生み出す「奇跡」を起こした『2049』のバックストーリーを暗示しているのか。