映画『沈黙 サイレンス』(2015年製作の映画)

17世紀、江戸時代初期におけるイエズス会宣教師と隠れキリシタンの信仰と迫害、転向の物語。
それ以前、16世紀のヨーロッパでは、マルティン・ルターやカルヴァンによる宗教改革により新教徒であるプロテスタントが台頭していた。
そのため、ローマ・カトリックは、その存在意義を問われ、真の信仰を示すために新天地での布教が求められた。そのためのカトリックの精鋭部隊がフランシスコ・ザビエルやイグナチオ・デ・ロヨラにより創設されたイエズス会だった。
彼らは神の意思と社会正義を背負い、その言葉を世界に伝える強い信仰を抱いていた。

しかし、この映画の主人公であるセバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)がイエズス会の宣教師として日本を訪れた時、それはまさにキリスト教徒が国により迫害されていた時代だった。
映画の中で描かれる拷問はきわめて残酷なものであり、共感しやすい人間であれば胸が苦しくなるものだ。キリシタンは取り締まりを恐れ、その不条理につねに怯えて過ごさねばならない。そして、その苦しみの中で、小松菜奈が演じる農民の少女は口にする。「死ぬのは怖くない。だって、死ねばパライソに行けるのでしょ?苦しみはなく、幸せになれるのでしょ?」その信仰は決して正統ではない。しかし、現実の悲惨な生活の中では、死後の救済のみが、希望なのだ。その姿を見て、主人公は現実に対する無力感と神の沈黙に揺らぐ。

キリシタンを取り締まる体制側の役人(イッセー尾形や浅野忠信)は、きわめて実務的である。彼らは権力の象徴である刀を腰に差した封建社会の選ばれた人間である。農民たちに対する愛情はない。彼らは彼らの仕える〈日本〉のために、やるべきことをやるだけである。彼らは〈日本〉の秩序を乱すキリスト教を否定する。キリスト教が入って来なければ、もっと穏やかな治世であったのだ。
主人公は苦しむ。われわれは、何のために来たのか。なぜ無力なのか。なぜ彼らは神を信仰できないのか。われわれは災厄をもたらしただけなのか。なぜ神はお救いにならないのか。彼らをなぜ、これほどまでに苦しめるのか。

役人に捕らえられた主人公は転向を迫られる。自分の信じた神を信じぬくのか、現実との折り合いをつけるために信仰を捨てるのか。主人公は悩み苦しむ。

2時間半におよぶ大作だが、長さを感じることはない。むしろ、無駄なシーンは一切なかったように思う。全編にわたり実存的な緊張が溢れている。
主人公を演じるアンドリュー・ガーフィールドは「ソーシャル・ネットワーク」や「BOY A」で魅せたようにナイーブな役がよくはまる。川で水面に映った自分の顔を見つめるシーンには、心をざわつかせるものがある。
小松菜奈が演じる農民の娘は端役だが、農民の切実さと白痴を親しみやすい鮮やかさで描いている。
窪塚洋介が演じるキチジローは変節漢である。誠実ではないし、悪でもない。しかし、罪を背負って、罪を重ねながら生きる彼の存在が、この映画全体にヒューマンを与えている。そして、彼の変節と転向の中に、か弱き人間の神への信仰を見出すのである。

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CoMA
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シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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