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2017-2月のメモランダム

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
2017-2月のメモランダム Posted on 2017年2月18日Leave a comment
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

2017-2月について

社会面では、ある女の子の信仰と労働問題が話題になっている。
経済面では、18万人の従業員を抱える企業が一部上場から二部上場に変更となった。
アジアでは、独裁者の義兄がクアラルンプールで暗殺された。
東アフリカの南スーダンは混迷の中にある。

パロールとエクリチュール

パロールとエクリチュールの違いはコンテクストが内包され状況が制限されているか否かの差だ。

デリダ論を読みながら、横浜美術館の写真展を訪れた。
ある瞬間・ある状況が切り取られた写真は、メッセージ・物語の主体でありながら、一方でその瞬間からなんらかのアイコン・シンボルになる。 写真はリアルの記録でありながら、幻想の描画 – 幻想の再生装置だ。

言葉でなく映像にも、パロール / エクリチュールという関係がある。
マリリン・モンローの写真は悲劇的な美女のアイコンであり、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真は愛のイメージとなり、コカ・コーラやマクドナルドの看板は資本主義の象徴となる。

この視点が、さらにアクチュアルに暗示するものとして、言葉や映像といった表現のみならず、僕らの存在・行為自体もパロール / エクリチュールの関係にあるのではないか。

「信仰の自由」/「表現の自由」とパロール/エクリチュール

「信仰の自由」と「表現の自由」は相互に侵略しあうものだと思う。 どちらも肯定されるべきものだが、論理的帰結として、両立は不可能になる。 しかし、否定的表現を否定すれば良いという安易な政策的結論は、言論の否定を生むため、批判されるべきであると思う。

ここで、パロールとエクリチュールの視座が活かされるのではないか。 つまり、パロールは全面肯定されるべきであるが、エクリチュールには批判が開かれているべきだということ。

「信仰の自由」においては信仰の主体は批判されてはいけない。 しかし、信仰の行為・表現のエクリチュール性に対する、批判的表現は認められるべきであると。

ある女の子の信仰について

とても明るく人当たりの良い女の子が、実は信仰心の厚い極めて浄化された精神性を持っていたとしたら、それが限りなく危ういものであったとしても、その汚れのないシーツのような真っ白な存在でありながら一方で不安定で実存的なそのあり方に、フェティズムを感じてしまう気がする。

フェイク・ニュースについて

フェイク・ニュースというのが、問題になっている。しかし、何らかの目的(PV稼ぎや収入)のために、嘘の物語を作り上げているのが問題だとしても、そもそも全ての物語(国家の正当性など)はフィクションだ。 また、ある種のイデオロギーやプロパガンダやコマーシャルを含むことのない情報はない。

物理的な紛争が正当化されない世界では、情報による争いは無くなることはない。であるならば、虚偽の情報が流れることは仕方のないことだと思う。 であるなら、意識しなければいけないのは、客観的情報は存在しないことを意識し、すべてをカッコ( )に入れて考えることでは。

歴史物語を学ぶこと

歴史を学ぶ意味というのがあるとすれば、それは人の思考がブリコラージュ式の方法をとることが理由に挙げられると思う。 ネイティヴ・アメリカンや世界中の先住民は、彼らの智慧として神話を用いる。それは、いやゆる演繹や帰納や弁証法としての論理をもたないが、経験によりコラージュされた物語だ。

彼らは、神話と生活の中での問題を連関させ、解決に役立てることができる。これは人間が、物語と現実の間で、ある種のシンボルと構造を抽出できるからだ。 であるなら、歴史を学ぶ意味は、現実と連関させるためのモデルを豊富にラインナップしておけることだろう。それも、アクチュアルなものとして。

「映像の世紀」について

20世紀は「映像の世紀」だった。しかし、映像はマスコミと国家に独占されていた。 21世紀は、本当の「映像の世紀」になるのではないか。かつてグーテンベルグの活版印刷機は、文字情報の生産・流通を普遍化した。現在は、モバイルデバイスとインターネットで映像が生産・流通されるようになった。

かつて、党派や宗教団体あるいは労組は機関紙を発行し、プロパガンダによる闘争を行なった。現代では映像が使用される。思い出せば、21世紀の始まりからそうだった。 今後、独占された映像の製作・流通機構はその力を失うのではないか。そして、それに付随した業界もまた分散する。

マス衰退の一方、ミクロな情報の発信主体がより強化される。その過程で、普遍的で平準的な情報は解体・微分され、よりターゲットとニーズに適合された情報が発信される。すべての情報は、ユーザーに向けたメッセージに変換される。すべてはコンテンツ・マーケティング化される。もう真実に価値はない。

活字による情報の伝達には大きな摩擦が存在した。受け手に、能動性が求められたために。 映像による情報伝達では能動性と論理による理解は必要とされない。それは、いわば感覚的に受容される。 そのため、論理的整合性は必ずしも必要ではない。重要なことは、それが受け手が関心と共感を持つことだ。

構成について

構成というのを定義するのは難しいのだけど、以下の3つが重要な要素ではないだろうか。
① メッセージの伝達
② 論理的展開
③ 空間的・時間的広がり

シチュアシオニストとポストモダン

20世紀の思想を考える際に、マルクスの後にシチュアシオニストを持って来れば、断絶に戸惑わずポストモダンによりスムーズに接続される気がする。
現在について考えると、ポストモダンも、もはや息をしていない。
結局のところ強いのは、ナショナリズムとポピュリズム。幼児的日和見主義的保守主義。

ポストモダンを考えると、その本質はシチュアシオニストと同様に実践的な思想・理論だったのだと思う。闘争/逃走の理論。それは、全力で投企すべきものであった。
しかしながら、冷戦終結後、ポストモダンは大学制度の再編などを通しシステムに組み込まれてしまった。そこで、ダイナミクスを失う。

そして、それは社会政策と結びついた。ダイナミクスを失ったポストモダンは、その相対主義的側面を残して、リベラルが一般化する。
結果として、会議は踊る、されど進まず。20年が失われる。
次に、歴史は繰り返す。
最初は悲劇として、二度目は喜劇として、過去の亡霊を呼び戻す。

スタバでMacと資本論

気づいてしまったのだけど、「スタバでMac」の「Mac」は、「ジョブズのMac」であって、50年代・60年代の「マルクスの資本論」なんじゃないだろうか。
「意識高い系」というのは、高いとか低いとかの問題ではなくて、ある種のパラダイムに組み込まれたシステムに沿って思考し行動してしまうということなのでは。

価値観の根底となる基礎について

「論理/理性 – 真/意識」をだけ基礎にした思考プロセスだと、現象学的実存主義的無神論になって、これだけだと価値観の基礎づけは難しい。わかる人にしかわからないし、共有されない。
これは「点」は存在するが存在しないというようなもので、安定できないということでは。
「点」を「線」にして「面」にすることが大事なのでは。キリスト教がすごいなと思うのが、三位一体理論であれがあるから矛盾による破綻みたいなものが避けられる。
だから、もう1つ「感覚 – 身体/感性 – 欲望 – 快楽/無意識」を基礎にしたメカニズムと、加えて社会とか徳とかを基礎にしたメカニズムを作って、3つくらいのメカニズムの上に物語 – 価値観の運動の場を基礎づければ良いのでは。

三位一体について

キリスト教に、三位一体という概念がある。
大学生の時に、はじめて聴いた時には、理解できず、よくわからなかった。
中沢新一さんの「TRINITY」という本を読んでからは、なんとなく気になっていたが。
その後、三位一体というのは、強い論理なのではないかと、なんとなく思っていた。

しかし、ここにきて、なぜ三位一体が強いのかわかった。

すべての系は矛盾を内包する。ゲーデルの不完全性定理のように。
1つの系だけを基礎として思考すると、自己矛盾により絶対性が破綻し、すべてが相対化される。

2つの系による基礎づけだと、1つの系に自己矛盾が生じた際に、もう1つの系にすべてが委ねられてしまう。
サルトルの、現象学的実存主義からヒューマニズム的マルクス主義への転向のように。
それが3つの系によれば、どれか1つに傾斜しすぎることなく、自己矛盾で破綻しないから安定するんだ。

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

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