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自分の好きな作家について語るのは難しい。
また、偉大な作家の作品に不要な批評を書くことは愚行かもしれない。

にもかかわらず、文章を書きたいと思う。

村上春樹の『騎士団長殺し イデア篇/メタファー篇』を読んだ。

いうまでもなく、傑作だったといえる。
もしかしたら、村上春樹の最高傑作といえるようになるかもしれない。

まず、視覚的な絵画を小説のなかで描いたこと挑戦的な試みだったといえる。
また、村上春樹作品の特徴である有と無とをこえたゆらぎの存在論、物語の構成には大きな深みを感じた。

しかし、これまでの作品との、もっとも大きな違いは主人公が「“父親”になった」ことかもしれない。

■ イデアとメタファーについて

まず、表題に付加されているイデアとメタファーについて考えてみたい。
これは、ある種、哲学的な概念である。

イデアは絶対観念であり、メタファーは言語による差異化の遊戯性だといえる。

村上春樹の小説がこれまで描いてきたものはそれであった。
それはイデアの喪失と自己修復の小説であり、メタファーによる闘争/逃走であったともいえる。
そこから、いかなる物語を紡ぎ出すか。それが問題であった。

村上春樹という作家は、ポスト・モダンを代表する作家であるといって間違いない。
そして、その登場は60年代末のマルクス主義的学生運動の敗北と三島由紀夫の自決を通過したものだった。

「僕」は機動隊員に前歯を折られズキズキしたり、学食で三島由紀夫の演説をテレビジョンで眺め、
1978年神宮球場でヤクルト対広島戦を観戦中に突然小説を書くことを思い立った。
そして、80年代以降、そのポスト・モダン的作風と独特の文体と物語で文学界を席巻することとなる。

それは、絶対性<大きな物語>の喪失から物語を再構築する大いなる歩みだったといえる。

初期の作品である『風の歌を聴け』や『1973のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ノルウェイの森』は、イデア喪失のその言いようのない悲しみを深く感じさせるものであった。
羊抜けがそうだ。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『ダンス・ダンス・ダンス』には、ポスト・モダン的なある種の可能性世界や高度資本主義経済との関係性が比喩的表現巧みに描かれていた。
それはスキゾ的な逃走の宣言であった。

「踊るんだよ」
「でも踊るしかないんだよ」
「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」
オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。

90年代以降、作風は深みを帯びていく。
地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災の影響から社会へのコミットメントを宣言する。

2009年には、イスラエル文学賞の授賞式にて『卵と壁』のスピーチを行い、小説の社会的意義を説く。

そして、本作においては、そこから一つパラダイムが進み、あらたな物語を紡ぎ出したというのが僕の見立てである。

■ 村上春樹によって描かれる父性 – あらたな物語構築のためのエチカ –

今回の作品で、関心を惹いたのは、主人公が父親となったことである。
それも、「実の子」であるかどうかがわからない子の、父親となったのだ。

村上春樹氏に子どもはいないはずである。
また、これまでの村上春樹の作品を振り返ると、主人公が父親として描かれた記憶はない。

もちろん、『国境の南、太陽の西』の主人公は妻子ある男性であったし、『1Q84』では青豆と天悟の間で、青豆が妊娠し子どもができたはずである。そして、天悟とNHK集金係であった父親との関係の中で、父親というものが描かれていたようにも思う。

しかし、村上春樹の物語といえば、独身の主人公が事件に巻き込まれながら女性と出会いセックスをするという展開の方がイメージに近いだろう。
今回の作品は、単に、そうではない。(そうではあるのだが。)

この点は、今回の作品とこれまでの作品との大きな違いである。

そして、これは「イデアの喪失/メタファーによる闘争/逃走」から、ひとつの新たなる物語を紡ぎ出したといえると思う。

結論からいえば、本作では、「実の子」かわからない子と“本当の親子”になることによって、
真実としてのイデアの獲得ではなく、メタファーによる世界観の転換でもなく、
他者との関係性の中で“真実を超えた本当の物語”の構築に辿り着いたといえる。

加えて、これまでの作品では、現実と可能性世界との関係で物語が紡ぎ出されていた。
しかし、今回は、その関係を乗り越えた上で、現実世界の中で、物語を紡ぎ出したといえる。

現実の世界の中に、真実は存在しない。しかし、その中に、本当の物語を見出すのだ。
これは、ポスト・トゥルースなどという安易な言葉で片付けてはいけない、物語の創造であると思う。

本作は、村上春樹の過去の作品の各要素が散りばめられて構成された大長編であった。
ある意味で、これは村上春樹の総決算的な作品になるのではないか。

■ レコードやカセット・テープで音楽を聴くこと

本作で、あらためて気になったのが、音楽を聴くことの描写だ。
もちろん、音楽について描かれているのは、いつものことである。

今回、気になったのは、レコードやカセットテープといったアナクロで非合理なメディアで音楽を聞いていることだ。
もちろん、ここ数年、レコードの復権やカセット・リバイバルがささやかれてはいる。

しかし、今さら、時代遅れのレコードやカセットテープで音楽を聞いてどんな意味があるのだろうか。
すると、レコードやカセット・テープで音楽を聴くというのは、ある意味何らかのアチチュードの表明ではないかと考えられる。

つまり、それは「動物化するポストモダン」化した社会へのアンチテーゼではないだろうか。
それは、物語の喪失への異議申し立てであり、コンテンツのデータベース消費へのNoであり、全てが相対主義化した社会への批判だ。

すべてが等価値であり、無価値である世界。
あらゆるものをデータベースからピックアップしてキュレーションする社会。
キャピタリズムとエンジニアリングの成れの果て、物語を失い真実の喪失に動揺する社会への批判であろう。

もちろん、音楽は曲自体物語を内包しているものである。
しかし、レコードやカセット・テープは、シャッフル再生することはできないメディアである。
そして、そのことが意味をつくりだす。
それらにはA面とB面があり、それぞれがその作品全体の前半と後半の構成として展開されていて、
作品全体として、その中に大きな物語が描かれているのだ。

ちなみに、私事であるが、この本の影響を受けてカセット・プレーヤーと大量のカセット・ライブラリを購入してしまった。
物語が現実に与える影響の大きさを感じざるをえない。やれやれ。

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