なぜ、音楽はデジタルであっては、十分ではないのか。

なぜ、音楽はデジタルであっては、十分ではないのか。
それは、音楽の本質によるものだ。

音楽はつねに超越を希求し体感するものであり、聴くものにとっては超越性との合一が快楽となる。
それは、現象からの解放であり、意識を溶解させ音楽の流れに身をまかせることだ。

では、なぜ、音楽は超越を希求するものなのだろうか。
音楽の役割は、経験的日常からの解放であり、日常を超えたところを体感することにあるからだ。
現実をある種の意味で否定し、超現実を体感すること、それが音楽を聴くことの意味だろう。

音楽が超越を希求してきたことは、キリスト教やインド哲学やチベット密教や浄土教の残してきたものを見れば明らかだ。
神の絶対性や神への愛を表現するものとして、すべてを包み込むような賛美歌があり、バッハの旋律があり、主への歓喜としてのベートーヴェンの第九がある。
あるいは、輪廻転生する生命体のブラフマンへの合一として、インド哲学やチベット密教における身体的な発生音としてマントラの音律があり、浄土教の極楽浄土への夢想として念仏や鳴り響く鐘の音があるのだ。

しかし、現在の音楽マーケットでの音楽は、そうではないといえるだろうか?
例えば、若い子たちが聴くラブソングなどは、現実における愛の不十分さに満たされない心境が超越的な愛を求め、それを満たすものとして震えるようなラブソングがある。
そういった意味では、ある種の夢想、非現実を想起し体感することを目的に音楽があるというのは変わらない。

音楽はデジタルであっては十分ではない、その問題は、この体感、音楽のフィジカル性にあるだろう。
仮に、グラフィック映像や電子ブックを考えてみる。
現代のグラフィック映像が多用された映画を見たときに、誰が臨場感を憶えないだろうか。
あるいは、電子ブックでテクストを読み、物語を想起するときに、そのデジタルさがどんな不具合をもたらすだろうか。
もちろん、そのデジタル技術の発達度にもよるが、ラディカルな問題としてはなんら支障は発生しないであろう。
なぜならば、それらは直接的に表象や観念に飛び込んでくるものであるからだ。
人間の論理の生み出したデジタルは表象や観念との親和性は低くないのだ。
問題は、それがフィジカルとの接触を持つときである。
デジタルのゼロイチの音は親和性のある響き、フィジカルな経験をもたらすことが難しいのだ。

音の波には、多くの周縁的な意味が含まれており、そこにはゼロイチあるいは有と無に変換することのできないゆらぎ性が含まれている。
それは、自然といわれるネイチャーの性質であり、ある種のヒューマニズムと似ているものだろう。
そういった意味では、人間の論理を超えた自然の摂理、生成消滅を繰り返す流転しつづける唯物論的な球体の論理こそ人間にとっては超越的なものなのかもしれない。

そして、その超越的な経験をするために必要なものとして、ゆらぎ性のある音があるのだろう。

投稿者プロフィール

CoMA
CoMA
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

コメントを残す

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。