TVドラマ評 2017年4月クール作品の解説・確定版

4月ドラマ解説・確定版です。チェック出来た範囲でのものです。

犯罪症候群

WOWOWと東海テレビの共同製作。
妹を殺害されたショックとトラウマから警察を辞め、今は探偵をしている主人公とその主人公に事件の捜査を依頼する警察組織の人間たちを描くクライムサスペンス。
東海テレビで8話、その後WOWOWで4話という日程で放送されます。
ストーリーとしては、主人公のトラウマと警察内部の闇の2つが核になっていくようです。主人公の探偵を玉山鉄二・警察組織の鍵を握る人物を渡部篤郎が演じ見応えはあるのですが、初回で起きた事件が3話にして解決され黒幕のようにもったいぶって描いていた人物があっさり捕まるなど(それによって警察内部の闇という伏線はできるのですが)すべてが完璧かと言われれば微妙です。

4号警備

警察ではなく民間警備会社を舞台に、そこに務める警備員のペアが主人公の一話完結ドラマです。主演のペアを演じるのは窪田正孝と北村一輝。
民間警備会社の身辺警護という部分にスポットを当てた新しさはあるかもしれないですが、こちらの主人公も恋人を目の前で殺害されたトラウマから警察を辞め警備会社へ転職したという設定になっており、「犯罪症候群」と似たような印象を受けます。
民間の警備会社と警察との違いなどをストーリーの中で的確に描写できれば今よりかはポイントがあがるとは思います。

クライシス

こちらは純粋な警察ものです。さらに言えば、公安警察のチームものです。
主演は小栗旬と西島秀俊。脇を固める役者陣もかなり豪華です。
初回から2つの事件をキレよく処理し、その中でチーム内のキャラクターや立ち位置を自然に説明してしまうといったように随所に技量の高さがうかがえました。
また、小栗と西島の体を張ったアクションも見どころと言っていいでしょう。
警察とジャーナリズム・宗教などが今後の大きなテーマとなっていくようで、ほのめかされている主人公たちの過去の出来事を含めながらのストーリーに注目です。

リバース

お得意の湊かなえ原作のミステリーをTBSがいつも枠といつものスタッフで制作。タイトルがリバースだけあって時系列の行ったり来たりが重要になるのですが、初回に関しては見せ方が少し雑かなと思う部分もありました。ただ、物語が進んでいくうちにこのような展開にも必然性が生まれるでしょうし、安定して楽しめる一本です。
既に起こった友人の死をベースに物語を進めていくという構造なので、それをいかに面白く見せていくのかのだと思います。現代と当時の回想を織り交ぜ、主演の藤原竜也の視点という武器を使いあっと驚く展開と結末が用意できれば必然的に及第点となるでしょう。湊かなえ作品には珍しい、異性交流の少ない男だけの物語という部分に注目するのも面白いかもしれません。

100万円の女たち

NETFLIXとテレ東の共同製作の異色の作品です。
RADWIMPSの野田洋次郎が主人公の男を演じ、彼と生活を共にする謎の女5人との日常が描かれます。女たちは共同生活にあたり毎月100万円を家賃として支払うという設定や、主人公の父親が3人を殺した死刑囚であるなど一見すると滅茶苦茶に思えるのですが、設定のわりに穏やかな共同生活の描写もあり、この絶妙な抑止力による物語の宙ぶらりんな感じと緊迫感は魅力といっていいと思います。
どちらに転ぶかは分かりませんが、傑作になる可能性も十分秘めていると思います。

母になる

去年ベスト1ドラマに選んだ「早子先生…」を書いた水橋文美江脚本の作品です。
冒頭『シンギュラリティにおける次世代の家族の在り方について君はどう思いますか』という架空の本が、主人公である夫婦の出会いのきっかけとして使われていて、シンギュラリティ・家族・不気味なもの、というキーワードに東浩紀の『観光客の哲学』を想起せざるを得ませんでした。
3歳で行方不明になった子供と9年後に再会するという「家族」のあり方を問う重いテーマのドラマなのですが、空白の9年間を巡るミステリー要素・家族や親とは何かを描くヒューマンドラマ要素・所々でみられるクスッと笑えるのコメディ要素など、水橋脚本ならではの捉えどころのなさが不気味に際立っています。
初回を見ながら母を演じる沢尻エリカの演技の素晴らしさを実感しました。父を演じる藤木直人の憔悴しきった表情や眼窩・泣きの演技も素晴らしいのですが、脚本のメッセージを理解し言葉を丁寧に形にしていくという事に関しての沢尻の技量の高さは目を見張るものがあります。今後の展開も読みにくく、目が離せません。

貴族探偵

出演陣がとても豪華、ただそれだけのドラマでした。
物語としても毎回起こる事件を解決していくオーソドックスな一話完結ものになるのでしょう。特に目新しいことを期待できそうになく、初回で見切りをつけるのが得策かと思います。

あなたのことはそれほど

ジャンルとしては不倫もので、不倫関係になる男女それぞれの夫婦が物語の中心になります。初回を見て面白いと思ったのが、必要最低限の動機すら描かれなかったり説明を省き焦点をぼやかしたまま話を進めるという強引さや詰めの甘さです。それが根拠や筋を求めない今の時代の視聴者の快感を刺激したいという狙いに感じなくもないのです。いつまでも運命や初恋を信じているイノセンスな女性像を描くことで背徳感なしに不倫を成立させたり、家事も手伝う優しい男性像を描きながら躊躇いもせず妻の携帯を見る狂気ぶりを成立させたりと、実はかなり危険で歪な人たちのドラマであるにも関わらずそこに動機や根拠を挟まず当たり前のように展開させていく気持ちの悪さ・チグハグさが斬新でした。欲望が欲求のように描かれる世界で登場人物たちはどう壊れていくか、一見の価値はあるかもしれません。

女囚セブン

脚本・西荻弓絵で剛力彩芽主演の深夜枠ということもあり大いに期待していたのですが、期待を上回ることはありませんでした。監獄ものということで作り込まれた独特の世界観で物語が進んでいくのかと思いきや、内部の囚人との衝突・和解を一話に一人という形で描いていくような作りになるようです。最後にはみんなで力を合わせて脱獄という運びになるのでしょうか。初回、もう少し工夫があっても良かった気がします。

ボク、運命の人です。

亀梨くんと山Pが再びタッグでドラマに出ることの意味、これが全てです。
この二人と言えば「野ブタ…」なのですが、あれから10年の月日を経た今、彼らの奮闘する姿が再び見れることが何より楽しいです。亀梨くんの律儀なサラリーマン姿、山Pの神としての振る舞い、ヒロイン木村文乃演じる30歳手前の等身大の女性像など、どれもがどこかで見たり知ったりしている懐かしさにつながっている感覚を味わえます。
この手の物語にありがちな過去を書き換えることで運命を手に入れるのではなく、今できる事を継続して運命を創っていくということ、そしてそれを支える過去の伏線たちも上手く描けていると思います。作品から感じる“あの頃”を思い出しながら、今こうやって楽しくこのドラマを見れる幸せを味わいましょう。

小さな巨人

半沢直樹チームが手掛ける刑事ものです。従来の刑事ものと違い単純に事件を解決していくというよりは、所轄と本庁の対立や一課と二課という警察内部の確執に多くの分量が割かれています。台詞の言い回しや執拗な顔のアップなど半沢で見られた独特の演出が際立つのですが、それに負けず劣らずストーリーや設定がしっかりしています。
事件を解き明かすというストーリーと人物の内面描写や何くそ根性・一発逆転の清々しさなど、好意的に見れる質の高さがあります。主演の長谷川博己の眉を上げる胡散臭い表情や香川照之のくどさ、これまであまり印象にない岡田将生の切れ者キャラなど、きちんと計算が行き届いてこその出来だと思います。今後も大いに期待しています。

人は見た目が100パーセント

1月クール「タラレバ娘」が個人的にダメでした。それには明確な理由があり、彼女たちの頭の中の大半が“恋愛”だったということです。職業も家族の話も出てきますが、結局すべて恋愛の話題に絡めとられしまう。別に“恋愛”がダメと言っている訳では無いです。“恋愛”の判断基準や楽しみ方が個人の感覚にのみ因っているということに当人が無自覚になっていることに受け手としてしらけてしまいました。
これまでも複数人の女性がうだうだ話すようなドラマは数多くありました。ただ年齢がもう少し上で、年を重ねることでの浮き沈みという人生経験が投影された上での恋愛事情という描かれ方がされていたと思います。一方「タラレバ」は、恋愛からしか得られない中途半端な感覚を当てに同じようなシーンが何度も繰り返し続いているように感じてしまいました。これはイメージやノリを至上とした「ポスト真実」的な世界観を体現していたと言えるのかもしれません。
話が逸れましたが、「人は見た目が…」のどこが良かったか。
ここ数年のトレンドである“タグ化画面”のきらびやかさというフォーマットを踏まえつつ、冒頭の台詞にあった「この世は根拠なんかどうでもよくイメージが全てだ」という「ポスト真実」世界に言及しています。この台詞こそが昨今のドラマをメタ視点から批評しているという証明になります。登場人物としては「タラレバ」の3人より女子力やセンスが劣っているのですが、そこを自覚しているという部分にこの作品の強みがあると思います。その立場を自覚して彼女たちが「ポスト真実」的世界にどう一石を投じるか。妥協や媚びではなく、根拠を求め試行錯誤(研究)しながら生き抜く姿が描かれることを大いに期待しています。

現段階のベスト3は「小さな巨人」「人は見た目が…」「母になる」ですかね。
「ツバキ文具店」「この世にたやすい仕事はない」「フランケンシュタインの恋」については追って言及できればと思います。

小嶋陽菜がAKB48を劇場での卒業公演をもって卒業した。

小嶋陽菜が先日のAKB48劇場での卒業公演をもって卒業した。
前田敦子以降、AKB主要メンバーの卒業は大きな注目を浴びてきた。

今回の小嶋の卒業に関しては、「まだ卒業してなかったのか」や「卒業公演前もやってなかった」という声も多く聞かれた。

小嶋含め主要メンバーはみな同じルートで卒業しているにもかかわらず、結局このシステムは世間に認知されなかったことになる。
独特ともとれるそのスケジュールを完結に整理すると、
①メンバーによる卒業発表
②具体的な卒業日の確定
③卒業ライブ(大箱)
④AKB劇場での卒業公演
という手順になる。

小嶋陽菜に関して言えば、去年の総選挙での①から先日の④までで約1年間が経過している。
引き継ぎ的な理由もあるし、卒業曲をセンターでリリースするとその握手会日程は消化しないといけない。
また、ライブ会場のスケジュールや今回の小嶋のように卒業日を誕生日や記念日にするケースも少なくない。
今や完全にシステム化されているAKBという巨大グループにおいては、卒業するのも簡単ではない。
そのシステムの根本を作り上げたメンバーの一人こそ何を隠そう、小嶋陽菜だったのである。

この動画を見れば分かるように、AKB劇場というのは場末のストリップ小屋と大して変わらない。
そこで安っぽい衣装を身にまとった素人同然の女子たちが歌って踊っていたのである。
デビュー当時からかなりきわどい活動がなされており、AKBがいまだに不貞の扱いを受けるのも納得の理由となる。
加えて、AKBの歴史には塞ぎ込んだ時代の煽りのようなものが重なる。
今でこそアイドル業界の盛り上がりは安定した水準を保っているが、そもそもAKBが誕生した2006年からここ数年までは、日本全体の雰囲気というのがとても内向きだった。
そのような暗い時代を乗り越え、今またバブルのような空虚な明るさが日本を包み込んでいる中での小嶋の卒業には必然を感じなくもない。

さて、小嶋陽菜とは一体どのような人物だったのか。
それは昨日のAKBのオールナイトニッポンに生出演した秋元康がこれ以上ない的確な話をしたので、個人の意見は控える。
ただ、先日の劇場での卒業公演の最後、つまりアイドル小嶋がラストに選んだ曲が「夕陽を見ているか?」だったことの意味は大きい。
この曲は2007年にリリースされたAKBの6枚目のシングルである。センターは小嶋と前田敦子。とても素晴らしい曲である。

しかし、なぜ10年も前の曲を小嶋が最後の曲に選んだのか。
それは、小嶋にとってこの曲こそが卒業というものを強く連想させた曲だったからではないか。すでに10年も前から小嶋の卒業に関するイメージはでき始めていたのかもしれない。
初期メン(1期生)としては峯岸みなみに次ぐ2番目の長さの在籍期間を誇った小嶋は「夕陽を見ているか?」以降、卒業という権利をちらつかせながらも、ずっと追試を受け続けてくれていたのである。

グループに在籍しながら絶妙な距離感を保つことで、彼女が成し遂げたこと。
見世物としての女性アイドルの人気向上のきっかけをつくり、アイドルからグラビアやファッションモデルの道を開拓し、
今の坂道のように1年目から優遇されるグループの活躍の土台をつくった。
もちろん、これが小嶋陽菜のみの功績という訳ではない。ただ、振り返ってみると彼女の存在観や態度が与えた影響がいかに大きかったのかは想像に易い。
常に最も卒業に近くにいた(もはや「夕陽を…」で卒業していた?)彼女のクラクラするほどの長い長い追試の期間が、昨今のアイドルブームの礎になったことは疑う余地がない。

小嶋陽菜さん、ほんとうにお疲れ様でした。いつかまた今度は追試を受けにAKBに戻ってきてくれることを期待しています。

TVドラマ評 2017年4月クール作品の紹介

4月クールのドラマが始まりだしました。特に初回は出来るだけ全て見ようと忙しくしてるのですが、今回は非常にバリエーションに富んだ良作揃いです。
そんな中でネットではこういった記事が散見しますね。
http://www.asagei.com/excerpt/79263
http://biz-journal.jp/2017/04/post_18710.html

ライターも書き手だから、ある程度過激な事を求められているという立場を踏まえての記事なのでしょう。
ただ最も問題なのは、この記事だけを読んで「今回のドラマも総じてつまらないんだね」と見てもない人間が思ってしまう事です。いくらネットの三文記事とはいえ、その影響力や捉えられ方を想像して書かれない記事は良くないなと思ったりします。

「犯罪症候群」「クライシス」

両者とも刑事モノとミステリーという割と万人受けする形式です。
前者はwowowと東海テレビというドラマフリークが否が応でも期待を寄せるタッグですし、後者は公安という使い尽くされたネタを、初回だけで2つ事件を用意しキレよく処理していく中でチーム内キャラや立ち位置をスマートに説明する技量は目を引きます。最後に主人公の過去のトラウマ描写なんかも効果的に挿入し、今後の物語の推進力となっていたと思います。

「リバース」

TBSお得意の湊かなえミステリーをいつもの枠でいつものスタッフでというところ。これも安定してみれると思います。タイトルがリバースだけあって、時系列の行ったり来たりが見どころになるのですが、その見せ方としては少し退屈な部分もありましたが、キャストそして湊かなえには珍しい異性交流の少ない物語にも期待です。

「100万円の女たち」

こちらはNETFLIXとテレ東の共同制作。
RADの野田洋次郎主演で、彼と謎の女5人の共同生活が描かれます。女の一人には永遠の推しであるところの松井玲奈。深夜だしもっと尖ってもいいところを絶妙な抑止力を働かせて、今のところ全てが宙ぶらりんになっている緊迫感がいいですね。どっちに転ぶか分からないですが、当たる可能性もなきにしもあらず。

「母になる」

水橋文美江脚本の不思議な力に魅せられ去年のベスト1ドラマを「早子先生…」にしたけど、その水橋脚本の新作。
冒頭『シンギュラリティにおける次世代の家族の在り方について君はどう思いますか』という架空の本が後に夫婦となり事件に巻き込まれていく2人の出会いのきっかけとして出てきた時には、「シンギュラリティ」・「家族」・「不気味なもの」、おいおいこれはもはや『観光客の哲学』ではないかと大いに驚かされました。

「早子先生…」でも多用されたモノローグ形式で物語を進めながら、多くの人が言及している映画「チェンジリング」的な展開と、上記の記事で演技が酷評されている突如顕れた子どもの不穏さ、村上春樹が「騎士団長殺し」で描いた「父になる」と近接したテーマなど、今誕生したことに意味がある非常に注目作です。アサ芸にこういうこと期待してもダメだけど、作り手の意図というのは考えるべき。

「人は見た目が100パーセント」

やれ中身がないだとかそもそも桐谷美玲が不細工じゃないからリアリティがないだとか、それくらいの浅すぎる意見しか世の中には出回らないんですね。参照した記事の酷評具合がえげつないです。
このドラマ、まだ初回だけですが僕は物凄く良くてきていたと思います。
僕は1月クールの「タラレバ娘」がほんとダメでした。
それには明確な理由があって、彼女たちが会って話す話題の大半が“恋愛”なのです。職業も家族も出てきますが、結局すべて恋愛の悩みに絡めとられてしまう。

別に”恋愛“がダメと言っている訳では無いです。
”恋愛“が非常に個人的な感覚にのみ因っているということに無自覚になってしまう事がマズいのです。
もちろんこのような女性3人が集まってうだうだしゃべるといった女子会ドラマはこれまでにもありました。
ただこれまではもう少し年齢が上に設定され、彼女たちの浮き沈みのある人生や経験が投影された上でのものったんですね。そこに関して「タラレバ」は、それこそ恋愛によってしか得れていない中途半端な感覚のみをあてにして何度もループを繰り返しているようにしか映らなかったのです。これはまさにイメージやノリを至上価値とした「ポスト真実」的な世界観であり、非常に危険な兆候だと思いました。

話しが逸れましたが、「人は見た目が…」のどこが良かったか。フォーマットとしてはここ数年のトレンドの“タグ化画面”構造を上手く利用し、冒頭の台詞で、この世は根拠なんかどうでも良くイメージという典型的な「ポスト真実」世界だと言及します。この時点で「タラレバ」のメタ視点に立てているのです。
そこを踏まえて彼女たちがこの世界にどう立ち向かっていくのか。妥協するのではなく、何か根拠を求め試行錯誤(研究)しながら生き抜く姿が描かれていくのでしょう。
初回ではファッションがフィーチャーされます。ファッションとは恐ろしいもので、完全に感覚・センスの世界です。センスのある人がイメージや感覚で優位に立てるノリ至上的な世界を今の世界に見立て、それをリケジョという設定を踏襲しながら研究していく。この地道な試みこそが実はバランスを崩しつつある現世にも通用する有効な手段であることを3人が示してくれればと切に願っていますし、その可能性を十分秘めていると思います。

欅坂46 – 君から僕へ ~ 平手友梨奈と2度目の春の事変 –

欅坂46がCDデビューを果たしたのは、今から1年前の2016年4月6日だった。
その鮮烈なデビューは世間でも注目を浴び、過激なメッセージを纏う姿から「反体制アイドル」とも呼ばれた彼女たちは、デビューからわずか8ヶ月で紅白歌合戦に出場するなど現在も破竹の勢いで支持を広げている。
その欅坂46がデビュー1周年を記念して、アイドルとしては初めてNHKの音楽番組「SONGS」に出演を果たした。番組では、デビューシングルから先日発売されたばかりの4thシングル(TV初披露)までのパフォーマンスの合間に4作連続でセンターを務めた平手友梨奈へのインタビューが差し込まれた。
グループアイドルのセンターはグループを象徴する存在として担ぎ上げられる。AKB48が世間に登場して以降、センターが示すものについては世間でも広く認知されることになった。無論、平手友梨奈も例外ではない。しかし、これまでリリースされた楽曲のパフォーマンスを見ると、欅坂46は既存のアイドルとは異なる路線を辿っているように映る。それが番組の構成からもはっきりとうたがえた。

パフォーマンスをコンセプトに掲げるグループとはいえデビュー1年ほどのアイドルが初めて登場する場合、メンバーの紹介やインタビューが用意されるのが通例だろう。しかし、番組ではそのような場面は見られなかった。たとえセンターである平手にスポットをあてるとしても「欅坂46とそのセンターとしての平手友梨奈」とするべきところを、いわば「平手友梨奈という存在と彼女の所属するグループ」という衝撃的な紹介がなされたのである。グループ内の格差が激しかったり、マイナーグループならばこのようなことが起こってもおかしくはない。しかし、欅坂46は今や全国的に知名度のあるグループである。メンバー個人としても活躍の場を広げているし、人気でいったら平手に勝るメンバーも多くいるかもしれない。
それなのになぜ「欅坂=平手が所属しているグループ」という、グループより個人か優越する扱いが許容されたのか。
それを考える鍵はこれまでのシングルのパフォーマンスにあるように思う。

デビューシングル「サイレントマジョリティ―」

デビューシングル「サイレントマジョリティ―」については当初から様々な事を書いてきた。激しいダンスと独特の振付・メッセージ性の強い歌詞や笑顔を見せないパフォーマンス。MVに至ってはデビュー曲にも関わらず逆光で撮影され、平手以外のメンバーの認識は困難なほどだった。挙げればきりが無いほど多くの新しさを孕みつつ、センターには当時14歳の平手友梨奈が立っていた。
歌詞を見れば分かるのだが、この曲は基本的に二人称で書かれている。

「君は君らしく生きていく自由があるんだ。大人たちに支配されるな。」
この曲の語り手はのちに「僕ら」という言葉があるように、同世代から選ばれし一人であると考えれらる。それがすなわちセンターである平手友梨奈だった。デビュー間もない素人同然の平手が、世代の代表として若者を率いながら体制に立ち向かえと鼓舞するシチュエーションはショッキングなものであった。何度も繰り返すが、当時彼女はまだ14歳の中学3年になったばかりである。しかし彼女は従来のアイドルとしては到底考えられないある方法をもって、この困難な命運に立ち向かい奇跡的にそれをやり遂げてしまったのである。その方法が“憑依”である。
強固な「見る/見られる関係」の上で成り立つアイドルの常識を超えた、憑依されることで自らの意志に因らずただ何かに突き動かされる少女の姿がそこにはあった。完璧に作り込んだ笑顔や自分が最も美しく映る企みは放棄され、自分ならざる者を呼び込むことで彼女はその存在を世に知らしめることになった。あまりにも強烈なデビューだ。

セカンドシングル「世界には愛しかない」

セカンドシングル「世界には愛しかない」は、言葉の力をひたむきに信じる少年の姿が滲み出る。冒頭の象徴的なポエトリーリーディングと明るく爽快な曲調、単純な感情が紡ぐ恋愛についてのストレートな歌詞が目を引くが、実は過激と話題だった前作よりもテンポが速く、曲中に組み込まれる言葉の数も幾分多くなっている。
平手はこの曲についてのインタビューで、歌詞の意味を理解することの重要性を語った。それは一人称の「僕」で表現(感情移入)するためだそうだ。ゆえに、歌詞の意味を踏まえしっかりと伝えたいという態度は随所に見られる。ただその若さと経験不足から一度背負ってしまった“憑依”という表現方法が完全に抜けきれていないのも伝わる。

サードシングル「二人セゾン」

サードシングル「二人セゾン」は、極端ともいえるダンス構成やデビュー曲と似た二人称に近い歌詞、平手のソロダンスが注目される。これまで貫いてきたグループとしての態度を崩さず、欅坂が既存のアイドルとは決定的に違うことを確信できる。
欅坂はこれまでセンターである平手以外の立ち位置を毎回大きく変えている。平手と心中するというのがグループの総意なら、平手以外のフロントメンバーを固めた方が平手にとってもやり易いはずだ。ただこのスタイルこそ、ある決定的な事柄を指し示しているのである。それが冒頭に述べた「欅坂=平手が所属しているグループ」という定義である。

結論から言うと、パフォーマンス中の欅坂というのはデビューから一貫して二人(平手と対象)とセゾン(他のメンバー)なのだ。他のメンバーやもちろん平手にとっても残酷ではあるが、いくら季節が変わろうとも平手友梨奈だけはその中心に立ち続けなければならない運命をその身に宿してしまったのである。少し過剰に崇めた嫌いもあるが、それでもこの曲での平手の表現力は当初から目を見張るものがあった。通常15歳の少女があれほどまでに情感を湛え歌詞の世界を複雑に表現することはまず不可能だ。彼女がこれを成し遂げたのは、民衆を率いる女神のシチュエーション(グループとしての強いコンセプト)で体得した“憑依”と、歌詞の意味を理解した上で表現するという2つの要素が備わりつつあることの証左となる。

ニューシングル「不協和音」

そして、ニューシングル「不協和音」に辿り着く。
現実に肉薄する圧巻のパフォーマンスに、改めて平手友梨奈はセンターに立つために生まれてきたと確信した。しかし間に挟まれたインタビューにおいて、平手は明確な時期こそ明らかにしなかったものの(恐らく去年の紅白出場前後)現在ひどく悩んでいることを明かした。「僕は嫌だ」というこの曲の歌詞が現在の自分の心境と重なると淡々と口にしている。この曲はデビューシングルよりもメッセージ性が強く、直接的な歌詞で構成されている。かつて彼女を救った“憑依”という超人的な感覚がこの曲をパフォーマンスする上では再度必要となるのだが、表現の技術や経験が身についたことで今の彼女にはこれまでの“憑依”という感覚が失われつつあるではないか。彼女の中にこれまであった二層構造のバランスが崩れ、結果としてそれが彼女に悪影響を及ぼしている。インタビューにおける平手の言葉や「不協和音」のパフォーマンスを見ながらそのような事を考えた。欅坂のコンセプトからいって恐らく今後もこのような系統のメッセージソングは作られ続けるだろう。その時彼女が曲とどう向き合い試行錯誤し表現していくか。彼女の中に蓄積されたものやこれから新しく身につくもの、それを武器に全身全霊を賭けて闘う今後の平手友梨奈そして欅坂というグループに注目していきたい。

最後になってしまったが、これから書くことは余談でも何でもない。
今回の「不協和音」は平手以外のメンバーにもきちんとスポットが当たっている。
デビューシングルにおいて平手が担った「僕」が想定している「君」というのは、あくまで不特定多数の若者だった。しかし今回のシングルは「仲間からも撃たれると思わなかった」という歌詞にもあるように「僕」が発信するメッセージは最も身近なメンバーも想定されている。「支配したいなら 僕を倒してからいけよ」これは、ある意味メンバーの下剋上を煽っているようにもよめる。つまり、この曲は「欅坂=平手が所属しているグループ」を脱するための序曲になる可能性の曲なのだ。平手の今の心境に重なり胸を貫いた「僕は嫌だ」という叫びは二番では長濱ねるが担う。「僕」でも「君」でもない「セゾン」だったメンバーが「君」として煽られ、いつかは「僕」を担う。この曲を皮切りに、平手以外のメンバーがこれまでの欅坂の体制にノーを突きつけられたとき、欅坂はまた新しいステージに登ることができるはずだ。

『かもめのジョナサン』を読む。

『かもめのジョナサン』を読んだ。
きっかけは、ふとしたことだ。YouTubeでミュージック・ビデオを流していると、ある動画が再生された。
それは1970年代をイメージした映像だった。
そこには時代を象徴するシンボルが映されていた。
フォークソング、喫茶店、コーヒー、ナポリタン、かもめのジョナサン。

『かもめのジョナサン』は、1970年代に世界的に大ヒットした小説だ。特に、ヒッピー文化に影響を与え、後にニュー・エイジやオカルティックな精神世界や自己啓発にも影響を与えた。

有名なところでは、オウム真理教の信者であった村井幹部は、「かもめのジョナサン」の心境になって出家をしたといわれている。

たしかに『かもめのジョナサン』は宗教的な要素のある作品だ。
しかし、思えば、それは宗教よりもその少し前の若者に影響を与えた『あしたのジョー』に似ている。
ジョーは燃え尽きた。真っ白な灰になるまで。そんじょそこらの不完全燃焼ではなく、真っ白に燃え尽きた。
「われわれは、“あしたのジョー”である。」

赤軍派(あしたのジョー)から、オウム(かもめのジョナサン)へという時代の流れが予見されていたのかもしれない。

『かもめのジョナサン』の話に戻ろう。
正直にいえば、僕にはあまり関心の持てないスピリチュアルな自己啓発書のような内容なのではないかという先入観があった。ある種の自分探しを肯定するような作品ではないかと想定していた。
しかし、読んでみると思いがけず鮮やかな印象を受ける作品であった。

主人公は、カモメのジョナサンだ。彼は、群れの中で変わり者である。
むしろ、彼は群れに馴染んでいない、はみ出しものだといえる。
彼は、飛ぶことの楽しさを知っているカモメだ。
ただ飛ぶことに夢中になり、それだけを探求するジョナサン。

一方で、他の群れをなすカモメたちはエサを求めるためだけに飛ぶ。
彼らは、ただ飛ぶという行為に意味を見いださない。
彼らからすればジョナサンは異端である。
ジョナサンは群れを追放される。
そして、ジョナサンはひとり超越を目指すのである。

その後の展開は、まるでチベット密教の師弟関係や、カルロス・カスタネダの作品を思わせる描写で、真理への接近が描かれる。

そして、あらたに書き加えられた第四章には、この作品が社会に与えた影響に対する、ある種の諦観や弁明、あるいは希望が描かれている。

この作品は全体として、限りなく純粋でピュアでありながら、一方である種の狂気や危険を孕んでいる。あやうい作品であると思うが、宮沢賢治や『星の王子さま』のように、読みやすく平易な言葉で超越的な実践の美が描かれていて、ため息さえ出ない。

『ゲンロン0 観光客の哲学』を読む。

『ゲンロン0』を読んだ。
『ゲンロン』は、東浩紀氏監修の批評雑誌であり、『ゲンロン0』はその創刊号である。
また、『ゲンロン0』は東浩紀氏の集大成的な哲学書である。

本書の副題は、「観光客の哲学」である。
これは、ある意味で柄谷行人氏の『トランス・クリティーク』の理論の更新ではないだろうか。

本書にはナショナリズムとグローバリズムに分裂した、2017年現在の状況をどう捉えるか、いかにわれわれは思考し行動すべきか。そう問うための、ビジョンが描かれている。

本書の核心のひとつは、現代のわれわれはモダンとポスト・モダンのふたつのレイヤーの中に生きていると捉えていることである。

現代の僕らの文化は、西洋近代の発展に大きな影響を受けている。
それは決して超克されてはいない。
しかし、1970年代以降のポスト・モダンの興隆と1990年代のソビエト崩壊以降、僕らはあたかも近代後の現代に生きていると考えているところがある。

モダン(近代の絶対的なツリー状の文化)はポスト・モダン(相対的なリゾーム状の文化)に転換されたのだと。

これらの展開を東浩紀氏は、モダンとポスト・モダン、アメリカ政治思想のコミュニタリアニズムとリバタリアニズム、ネットワーク理論のスモール・ワールドとスケール・フリーの概念を利用して説明する。
そして、現代をこう捉えるのだ。
現代のわれわれはモダンとポスト・モダンのふたつのレイヤー、そのふたつのレイヤーに足を踏み入れ両方が重なる世界に生きているのだと。

その上で、東浩紀氏はその異なるレイヤーの世界を調和させる思想として「観光客の哲学」を提示する。そして、それこそが現代的な21世紀にあるべき連帯の形、郵便的マルチチュードを形成するのではないかと。

ここ数年の東浩紀氏の言動を振り返れば、ある種の「運動」に対して批判的なスタンスを崩すことがなかった。あくまで、それは、本来あるべき形ではないと。
そして、空虚な連帯ではなく大きな物語をいかに再興するかそれが課題であると語っていたように思われる。

本書は、それに応えるメッセージが読み取れる作品であった。

『ゲンロン0 観光客の哲学』と『トランス・クリティーク』が机上に並んでいるのを眺めると、父なるものと母なるものが生み出した空間が家族ならば、そこから生まれた子が父とは異質の物語を語り、あらたな家族のもとで散種しているのだと批評のダイナミズムを感じてしまう。