『かもめのジョナサン』を読んだ。
きっかけは、ふとしたことだ。YouTubeでミュージック・ビデオを流していると、ある動画が再生された。
それは1970年代をイメージした映像だった。
そこには時代を象徴するシンボルが映されていた。
フォークソング、喫茶店、コーヒー、ナポリタン、かもめのジョナサン。
『かもめのジョナサン』は、1970年代に世界的に大ヒットした小説だ。特に、ヒッピー文化に影響を与え、後にニュー・エイジやオカルティックな精神世界や自己啓発にも影響を与えた。
有名なところでは、オウム真理教の信者であった村井幹部は、「かもめのジョナサン」の心境になって出家をしたといわれている。
たしかに『かもめのジョナサン』は宗教的な要素のある作品だ。
しかし、思えば、それは宗教よりもその少し前の若者に影響を与えた『あしたのジョー』に似ている。
ジョーは燃え尽きた。真っ白な灰になるまで。そんじょそこらの不完全燃焼ではなく、真っ白に燃え尽きた。
「われわれは、“あしたのジョー”である。」
赤軍派(あしたのジョー)から、オウム(かもめのジョナサン)へという時代の流れが予見されていたのかもしれない。
『かもめのジョナサン』の話に戻ろう。
正直にいえば、僕にはあまり関心の持てないスピリチュアルな自己啓発書のような内容なのではないかという先入観があった。ある種の自分探しを肯定するような作品ではないかと想定していた。
しかし、読んでみると思いがけず鮮やかな印象を受ける作品であった。
主人公は、カモメのジョナサンだ。彼は、群れの中で変わり者である。
むしろ、彼は群れに馴染んでいない、はみ出しものだといえる。
彼は、飛ぶことの楽しさを知っているカモメだ。
ただ飛ぶことに夢中になり、それだけを探求するジョナサン。
一方で、他の群れをなすカモメたちはエサを求めるためだけに飛ぶ。
彼らは、ただ飛ぶという行為に意味を見いださない。
彼らからすればジョナサンは異端である。
ジョナサンは群れを追放される。
そして、ジョナサンはひとり超越を目指すのである。
その後の展開は、まるでチベット密教の師弟関係や、カルロス・カスタネダの作品を思わせる描写で、真理への接近が描かれる。
そして、あらたに書き加えられた第四章には、この作品が社会に与えた影響に対する、ある種の諦観や弁明、あるいは希望が描かれている。
この作品は全体として、限りなく純粋でピュアでありながら、一方である種の狂気や危険を孕んでいる。あやうい作品であると思うが、宮沢賢治や『星の王子さま』のように、読みやすく平易な言葉で超越的な実践の美が描かれていて、ため息さえ出ない。
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