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『ゲンロン5 幽霊的身体』を読んでいる。

個人的に「幽霊」・「身体」というキーワードには以前から興味があった。

それは、20代のあいだずっと「絶対」の存在と可能性(「絶対」が成立し得ないことだけが絶対的に存在するという現実をどう捉えればよいのか)について思いを巡らしていたからであるし、またオルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーやジョン・C・リリーのような言語的論理の外部に興味を持ち続けていたからだ。

ところで、自分の見立てとしては「幽霊的身体」というのを考えてみると、それはある種の弁証法への反省と再度の実践を踏まえた話ではないかと思う。
たとえば、ユートピアを目指した左翼が連合赤軍みたいなところに行き着いたという現実があった。そこにはテロルの現象学のような課題があった。それに対置する形でアソシエーションやマルチチュードが提起されたが、しかしそれは否定神学的な概念だから有効性を持たないため、ある種の「存在の揺らぎ性」を基盤にした思想が必要なのではないかということだ。

それはこう言いかえることもできて、アドルノの否定弁証法のように近代の啓蒙理性はその理想に反してその極で非人間的なものであった。
近代理性が見落としていたのは、存在の揺らぎ性ではないだろうか。
それは、たとえば、村上春樹の物語で描かれている「向こう側」とこちらの繋がりのようなものではないか。あるいは、最新作『騎士団長殺し』で描かれた「血縁関係(事実)をこえた家族(人とのつながり)」を想定したエチカと通底するものがあるかもしれない。

近代や哲学が見落としていた視点は「存在」を言語により定義したところにあるのではないか。あるいは「有と無」はデジタルに切り離された存在ではなく、アナログなもので明るさと暗さが絶え間ないコントラストで継続しているものではないだろうか。

『ゲンロン5』の話に戻ると、論考がとても面白かった。鴻英良さんの「虚体、死体、そして〈外〉へ」で描かれた〈自同律の不快〉はとてもよくわかる話だったし、渡邉大輔さんの「『顔』に憑く幽霊たち」で描かれたInstagramやSNOWのアプリを使う人々の意識についての話はテクノロジーがリアルに人々に変化を与えるかという可能性のようなものを感じさせた。
共同討議の「ユートピアと弁証法」は純粋におもしろい。
ところで、今年はロシア革命100年だからトロツキーの『ロシア革命史』を読もうと思っていたのだけれど、もう2017年も半分が過ぎてしまった。

すっかり、真夏そのものが姿を見せ始めている。

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