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『20センチュリー・ウーマン』を観てきた。

まず驚いたのが、この映画の語り口が今の日本のテレビドラマと非常に似ているということ。岡田恵和や坂元裕二がここ数年描き続けてきたテーマとの近接性。簡潔に言ってしまえば“疑似家族”。
もちろん主軸はドロシーとジェイミーの親子関係なんだけど。

一つ屋根の下で他人同士が暮らすという設定の上で重要なのが個々のキャラクターや人物の背景。岡田さんや坂元さんもこれが上手いんだけど、この映画もこの点が素晴らしい。

例えば、ウィリアム。絶体バレる状況下でアビーと関係を持ったり、ドロシーに不意にキスをしてしまったりする。
そこには彼の色男としての明暗があり、ヒッピーだった過去は作品全体の雰囲気をリードしている。にも関わらずフェミニズムというテーマの前に唯一の成人男性という添え者として存在感の薄さ。重層的なキャラが作品に奉仕する成功例。

アビーとジュリーという2人の若い女の子のキャラもいい。
ニューヨークのアートスクールをガンを発病したことでで諦めたアビーの過激なフェミニズムとジェイミーと微妙な距離感を保ちつつ大人の表情を見せるジュリー。この2人の女の子と一緒にいるだけで15歳の少年が「僕はフェミニストだから」と言うことに説得力が持ててしまう。

母であるドロシーが彼や彼女たち意外にも下宿に招きながら活発な議論して行く中で絞られていくのはフェミニズムについてなのだが、これがこの映画のテーマの中心かと言われればそうではない。
それはまだネットが無かった79年当初のコミュニケーションの再現として描かれる。

ではこのコミュニティの意義はどうか。
自由奔放の現実主義者(wiredミルズ監督インタビュー記事参照)であるドロシーが私がジェイミーを育てたら私のように不幸になるのという思いからアビーやウィリアム・ジュリーをそばにおいたということは分かる。では、それでどうなったか。

ジェイミーは個性豊かな彼や彼女たちから影響を受け、時に母親も心配するほどのフェミニストぶりをみせながら多面的な少年へと成長していく。だが、これがこの映画のテーマの中心かと言われればそうではない。80年を過ぎた頃からはコミュニティの存在が朧げになるほど各人はバラバラに生きていく。

そのバラバラになったコミュニティを振り返ってもらいカタルシスを強要することも一切ない。結局、何も明示されない。
たまたま79年という時代に一時だけあった共同生活の記憶を思い返すことでくっついてきたあれこれ。環境とタイミングが揃ったその時にたまたま悩んでいた母と思春期の子どもの話。


15歳のぼくはひざ掛けを首で縛りマントのようにたなびかせ廊下を颯爽と歩いたり、帰り道に生える木に太マジックで落書きをしたりと、今考えると抑えられない破壊的衝動があったなと思うが、「僕はフェミニストだから」という言葉なんて無縁だった。

作品の中の彼はなぜそうなったか。
それは環境であり、タイミングである。
政治や道徳を正解や間違いではなく、タイミングや環境から捉えた稀有な作品。
そこに今の時代の女性にも共感される普遍性もあるんだよね、不思議。

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