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フォークナー『アブサロム、アブサロム!(上・下) (岩波文庫)』

p263「真実より本当の《あったかもしれないこと》があると理解できる力が、本当の智慧なのでしょうか?」

偏執的としか言いようのない入り組んだ語りに何度も何度も立ち止まらされ、直線的な時間など(少なくともこの小説には)存在しないことを思い知る。

時間の中で継起する出来事を語るのではなく、一つの場所(南部)を舞台としてその中でいかようにでも変転する時間そのものを語ること、《あったかもしれないこと》を執拗に重ねることで狭い作品世界の内部が無限かと思えるような広がりを持つこと。

「五十年も前に起こって終わってしまった出来事に対する、死霊のような、抑えようもない怒りと誇りに満ちている真空のようなものは何なの?」

実際に起こらなかったことも歴史のうちであるというだか寺山修司だかの言葉を信じるなら、何行にもわたって描いた情景や台詞を「ではなく」と否定する無駄としか思えない書き方も、「実際には起こらなかったこと」を記述するための方法なのでは。

純血という神話を打ち立てようとした男が混血によって(愛の不在によって)滅びる物語であり、異様に入り組んだ語りは歴史を召喚する何かの儀式のよう。

管 啓次郎『海に降る雨 (Agend’Ars3)』

歩行と、読書と、地、水、火、風。著者のこれまでの思索の道程が詩の形をとって演じられている。
歩くという動詞が、どの詩にも見え隠れしているように感じる。
「こうして土地がかれらの祭壇となった/祈りの一形式としてのかれらの歩行」

『ユリイカ2006年8月号 特集=古川日出男 雑種の文学』

吉増剛造との対談と『川、川、川、草書で』とインタビューを再読。

吉増剛造『静かな場所 (Le livre de luciole)』

「耳を澄ます、という表現がある。(中略)耳をすます、とひらがなに変えると、響きがうつりはじめる。/音楽に耳をすます。そのとき、たしかに、私達は、一つのかたちに耳をすましていることに気づく。かたち、フォーム、形式、様式に」

「色に耳をすます、そのかたちに耳をすます」「耳をすます」「静かな場所」「声の溜り」

この本の中で吉増剛造は、聴覚に戸惑い、戦きながら、記憶やイメージをたどり、言葉を一つ一つ掬い上げるように文章を綴っている。連想と共感覚の散文。

末尾に置かれた詩『オルガン』が素晴らしくて繰返し読んだ。

吉増 剛造『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ! (講談社現代新書)』

吉増剛造の朗読を初めて聴いた時、すごく腑に落ちる思いがしたことを覚えている。
こういう風に読む詩なのか、こういう声で書かれたのか、と思った。
わかるわからないはともかくその作品に引き寄せられるのは、それが声の詩だと感じられたからだ(単に視覚型の文章が読めないだけかもしれないけど)。

「詩というのは音と言葉の間みたいなもの、そういうところにある」と語る吉増剛造の詩は、稠密な割注や当て字で判読不能と思えるような作品でさえ、すべてが聴覚に、あるいは「耳をすます」(『静かな場所』)ことに繋がっている、と断言したくなる。

モルモット吉田『映画評論・入門! (映画秘宝セレクション)』

映画評論を論じる、という珍しい切り口の映画本。作品をめぐる論争史から「名作」の同時代評まで、映画はどのように観られ、語られてきたのかがわかりやすくまとめられている。
オールタイムベストの常連作品こそ評価の移り変わりを知っておくべきだと実感。
『シン・ゴジラ』が実にタイムリーだ。

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