『勉強の哲学』を読んだ。
思った以上に好きなテーマが扱われていたように思う。
また、佐々木敦の『未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ』に繋がるところが結構あった。
そちらも、勉強の際限なさに対して有限性を活用することから始まっていたから。
「環境のノリ」が言語による刷り込みなら、勉強とは違う言語を使えるようになることだろうか?
言葉は環境のコードに規定されるが環境のコードは言葉でできている。
違う何かになる方法は使う言葉を変えることだ。
違う言葉遣いの界隈(=ノリ)へ参入し、聞きなれない言葉を異物感を味わいながら使ってみる。
その時、言葉の他者性・物質性に(改めて)気付き、別の可能性が開けてくる。
しかし言葉はあくまで環境依存的なものだから、あるノリから別のノリへと転身し続けなければならない。
そんな絶え間ない自己解体をこの本では「勉強」と定義する。
その中で、「アイロニー」と「ユーモア」というキーワードが提示される。
「アイロニー」とは、ツッコミ・縦軸・深掘りを意味する。
そして、行き過ぎると現実それ自体という不可能という極限に突き当たる。
「ユーモア」は、ボケ・横軸・言葉のずらしである。
行き過ぎると接続過剰、どうとでも言えてしまうという無意味(ナンセンス)に導かれてしまう。
それゆえに、必要なことは、アイロニーの過剰をユーモアで抑え、ユーモアの飽和を「享楽的こだわり」で断ち切るが、「享楽的こだわり」を絶対的なものとしない(変われる可能性がある)ためにアイロニカルな視線を向け続けることだ。
常に仮の固定であり、勉強とはし続けるものである。
「勉強」というキーワードを用いて哲学するのと同時に勉強の実際的なノウハウ本でもあるのが読み心地の奇妙さの理由か。
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