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クトゥルー神話というテーマに絞ってこれだけ多彩な作品集を作れることに驚く。
また、終末の光景の美しさ、物寂しさに惹かれるものがある。

これはシンクロニシティのような話ではあるが、たまたま同時期に読んでいた『続・入沢康夫詩集』に収められているエッセイ『作品の廃墟へ――幻想的な作品についての妄想的な断想』の文章を思い起こされた。

幻想的作品がうさんくささを呼び、マイナーな感じを持つとすれば、そのより本質的な理由と考えられるのは、それら幻想的作品の「時間性」の問題である。その幻想が真に戦慄的であるためには、(中略)それは超時間的なもの、時間と垂直に交わるものなのである。ところが、いわゆる幻想的作品は、物語であり、譚詩であり、そこでは事件の推移が叙述されなければならない。また、時間を絶した一つのヴィジョンを描き出す場合でも、それが言葉による叙述である以上は、「叙述の時間」がそこには介入してくる。一語の中に、一字の中に、一音の中に、すべてをひしめき合わせることができるなら別だが、われわれの言葉はそのようにはできていない。叙述できないことを叙述しているという点に、そのうさんくささの源がある

これがクトゥルー神話のある種の作品と意図せずに共鳴しているように思えた。

「時が<時>として流れる」以前の「大いなる旧支配者による至福の世界」(『鏡のない鏡』)という風に、無時間を(邪神たちの)還るべき理想郷としている。
それは、「一語の中に、一字の中に、一音の中に、すべてをひしめき合わせること」という幻想文学の不可能な理想に似ている。
ラヴクラフトの作品は、うさんくささを纏うことを恐れずにこの理想を追求したものなのではないかと思った。

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