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19世紀はリアリズムの時代であったが、技術・美術的な側面においてはカメラの誕生と写真文化の繁栄のはじまりであった。カメラは、瞬間の現実を切り取り氷結する装置であった。
一方、PhotoshopやSNOWにより現在は写真が加工される時代となった。それは現実ではなく、夢想の具象化だ。

今年開業したGINZA SIXに行った。
「Life At Its Best 〜最高に満たされた暮らし〜」をコンセプトにした、銀座の国際的な商業空間。
空間を彩る草間彌生の現代アートと、日本文化とアートを結節するという蔦屋書店が特徴的であった。

  

しかしながら、“最高に満たされた暮らし”とは何だろうか。
また、アートと暮らしはどうつながるものなのだろうか。
あるいは、本は電子化が進んでいるけれども、紙の本の存在や、商業施設における書店の意義はなんなのだろうか。

そして、最先端の商業施設は、僕らの時代の何を象徴するものなのだろうか?

オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について

まず、ポストモダン以降の本〈テクスト〉と社会の関係性(構造)を考えてみると、そこではテクストは文脈から切り出されエクリチュールとして異なるコンテクストに接木されるものとして扱われる。すべてのテクストはコピー&ペーストされ総体としてハイパー・テクスト化された世界を作り出している。それは、“浮遊するシニフィアン”のネットワークだろうか。

社会についてもほとんど同じことがいえる。
様々な記号やシンボルが切り取られ、ブランドイメージや広告として流通し、ある種のサイバー空間をつくっている。
とくに、パーソナルコンピューターが完全に普及し、テクストが電子化された今はその傾向がより進められているように思う。

そして、そういった意味では、都市の商業施設は、まさに記号化されたブランドと広告が充満したサイバー空間そのものだろう。

ところで、上記において「テクストは文脈から切り出されエクリチュールとして異なるコンテクストに接木される」と記したが、いまは「本〈物理的な物〉」と「本の内容〈テクスト〉」というものがまた切り離され、それぞれが別々の存在としてそれぞれ機能しているようだ。

テクストの電子化や情報産業の成長は、「本〈物理的な物〉」からもともとその中に本質的に内在していたテクストとしての価値が流出することを要請した。
その結果、「本〈物理的な物〉」はオブジェと化している。
人々が「本〈物理的な物〉」に期待することは、もはやテクストを読むことにより世界を思い描くことではなく、ハイパーテクスト化した世界の中のカフェ(そこはかつて「本屋」であった)でチョコレート・フラペチーノを味わいながら、オブジェ<本>を眺めて“何かに満たされた感じ”を得ることである。さながら、ギャラリーや美術館の様相すらある。
彼ら彼女らには、あるいは“暮らしのイデア”のイメージでも見えるのかもしれない。

これは、決して否定や批判ではないのだが、「紙の本」はテクストが電子化する中でひとつの役割を失う一方そのマテリアルに対するフェティッシュな意味合いを増大させた。
そして、記号として、オブジェとしての存在感を強めているように思われる。

“なんとなくグラマー”な印象をいだかさせるオブジェ<本>。

しかし、オブジェから再生されるイメージには物語を語る力があるだろうか。
それらは単に具現化された記号にすぎない。たとえフェティッシュな何かであったとしても。

人々はさまざまな記号に触れて日々の生活に刺激を与えるが、そこでは実存とバーチャルなライフスタイルの間で乖離が生じる。
その中で人々は疎外を感じ、満たされないと感じるようになる。

その疎外や実存の不安を満たすために、人々はなんらかの物語を語る必要が出てくる。
物語がなくては、人は物との接触や記号だけでは、生の実感を抱ける世界を描けないだろう。
ゆえに、人は自らが物語の中の人物であるように振る舞うようになる。
そして、ファインダーの中に自らの姿を映すのだ。
もちろん、映画スターやアイドルのプロマイドのように加工された写真がSNS<サイバー空間>に投稿されることになる。

まさに、GINZA SIXのような商業施設、アートを身にまとったフォトジェニックな空間は、人々が物語の中に生きるための舞台装置なのだろう。
まるで、現実がポストモダン小説のサイバーパンク世界になったような、そんな印象を抱いている。

とはいえ、デートにはぴったりでしょう。絶対楽しい。

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