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7月1日

今日は高尾山で木の根を見つめながら、リゾームとツリーは別個なものとして対比されるべきものでなく不可分でそれらが総合されたところがネイチャーであると謎のインサイトを受けた。

7月2日

コカ・コーラが好きだ。
フタを開ける時の音の響き、香りや炭酸の刺激、夏の爽やかな海岸やクリスマスのホーム・パーティのイメージ、夏期講習の帰りに自販機で買って飲んだ記憶、スノーボードのゲレンデで飲んだ記憶。


僕は「生産」や「労働」よりは「消費」の方が好きだ。
そこにはマテリアル感、身体性、シンボル、物語性、記憶、文化的なもの、ライフスタイルとの一体感が総合されていると好ましい。

社会性(他者との関係)の中での、承認の獲得,アイデンティティの確立,あるいは上位ヒエラルキーへの指向を目的とした消費は好きではないし、そのための「表象の操作」や「シンボルの獲得」のための消費というのは難しい問題。

原則としては、人は快楽のために消費すべきと思うし、それは文化的かつ身体性に根ざしたものだといいというのが僕の個人的な偏見。

快楽=「何かがステキだ,楽しい,クールだ」と感じることであるとする。
他方、「何かがステキだ,楽しい,クールだ」という感じかた(観賞/観照)に対し、「自分もそうなりたい。自己と何かを同一視したい。」という欲求(自己実現)が芽生えてくるというのが厄介。


ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の違いは、C言語,C++,Javaの言語の違いみたいなものなのではと考えていたのだが、アレゴリカルだった。

“ジャワ島は人口の9割がイスラム教”

“コンピュータ言語の Java は、ジャワ島のジャワコーヒーから名付けられたとされる。”

7月3日

『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうという思いが、ふと湧いてきた。人に幻想を抱かせ操るもの。
だからあれは『言葉をめぐる旅』と名付けることもできる。

“完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね”

形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/闘争を開始する。

村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。
“同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった”
「羊抜け」だ。小阪修平もなかば離人症のようになったと言っている。

革命の終わりの時代、1970年代の雰囲気は想像がつく。
1970によど号ハイジャック事件、1971-1972には連合赤軍事件。
文化面では、1972『木枯らし紋次郎』、1973『氷の世界』、1974『傷だらけの天使』、1975『僕たちの失敗』、1976『いちご白書をもう一度』。

1977、イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われたら次の年、1978から『風の歌を聴け』は執筆が始まる。
それは、形而上学=羊が離れた年、1970年の物語だった。

7月6日

俺に理解できないのは、総じて「何かになりたい」ということのような気がしてきた。
何者かに憧れる時代。これは、書店の自己啓発書とビジネス本、SNSと写真投稿、ポエム化と関連しているのでは。
そして、それはロマン主義と全体主義に通底するものがあるのでは。

7月7日

『神とゴッドはどう違うのか』という本を読みはじめたのだが、これは本当に面白い。ユダヤ=キリスト=イスラームの一神教的理念と日本的多神教の世界観の差がわかる。
僕は以前、「絶対性/絶対観念」をずつと求めていたけど、あれはいわばゴッド=存在の基底のようなものだった。

この本では東洋的世界観と西洋的世界観=西洋的思考=ユダヤ・キリスト的一神教=西洋哲学史というものの差が描かれているのだけど、一神教的思想として三島由紀夫がフューチャーされているのが、さもありなん。

7月8日

『神とゴッドはどう違うのか』は20年前、1997年の出版なのだけど、三島由紀夫の検討の後に司馬遼太郎・堺屋太一・渡部昇一の批判的検討、中村天風・船井幸雄への批判的批判が続く。
考えてみれば、自己啓発(スピリチュアリズム)+ビジネスは長い流れとしてあるんだな。

「自己神格化欲求仮説」これは熱い。

7月13日

昔は夏になると、たまらなく、わくわくしたり切なくなったりしたものだけれど、あれは何だったのだろうか。今はもうなにも思わなくなってしまった。
青空、蝉の声、蜃気楼、夏祭り、花火、三矢サイダー、キンチョーの夏。

7月18日

『アヴァン・ポップ』は、15歳の俺,20歳の俺,30歳の僕がそれぞれ関心のあること/あったことがコラージュされてミックスされている感ある。

”つまりサイバーパンクとは、理性の時代のサドにはじまりボードレール、ランボー、ダダイストおよびシュルレアリスト詩人、バタイユ、アルトー、ジュネ、さらに時代を下ってビート作家、エルヴィス、フランス情況主義者、そしてセックス・ピストルズにいたるアーティストの系譜の末席につらなる一存在にほかならないのである。” 『アヴァン・ポップ』p.081

7月20日

僕はむかしから幻覚にすごい関心を持っていて、それは世界の認識とか在り方とすごい関わっているものだと思っている。
そういえば、看護師の姉から聞いたのだけれど、手術後の人には一般的にせん妄の傾向があるらしいという。そういう意味では、人間の意識というのはきわめて不安定で浮遊したものだ。

また、この意識の不安定さというのは本来ぼくらが世界とつながりを持つ上で忘れてはいけないものだと思っていて、この浮遊を捨てて理性(言語)による固定に偏るとある種の抑圧や理性の暴走につながるのではないかと考えている。

そういう意味では、この意識の浮遊というのは言語による既成概念の固着をなくした状態、エポケーに近いものなのかもしれない。
そして、その状態について、身体性に重心をおいて捉えればヨーガになどにつらなるものがあり、あえて言語的な方向に重心がかかれば詩的なものになるのだろう。

それは、ある意味でポスト・モダンが目指していたものによく似ているのだろう。

7月22日

なぜか、Disc Unionでルー・リードのカセット・テープ3本セットが1300円で売っていた。
『アヴァン・ポップ』にサイバー・パンクは、ルー・リードとバロウズの系譜にあると書いてあったから買った。

7月23日

多くの人がSNSやセルフィーあるいは承認の罠に嵌ってしまう時代状況が、最先端の象徴的トポス「GINZA SIX」に行ってみてわかった。たしかに満たされないんだ。そこに高揚感や美しさはあっても。

本がオブジェになるというのは、とても面白いと思う。状況として。

オブジェ化する「本」とフォトジェニックな空間の時代性について – Instagram,SNS,ライフスタイル –

7月24日

ラブホ女子会も結局は写真とオブジェだったんだな。ラブホというコンテクストから、オブジェをエクリチュールとして切り離す才能は素敵だと思う。

7月25日

過労死って「総括できなかったための敗北死」みたいで恐ろしいな。

「全共闘,三島事件,連合赤軍,オウム事件」を考えるというのは、やはり日本の思想・批評のあり方のひとつなんだろう。それは、ある意味「天皇,満州,敗戦」を考えることでもある。

あるいは、農耕文化,島国ということや日本的神話・宗教観(素朴なアニミズムのようなもの)とも関わる問題かもしれない。

7月26日

連赤とかオウムを“頭のおかしな人たち”で片づけてきたり、問題とその前にあった希望の幻想みたいなものをまるで最初からなかったものとうやむやにしてきた、ものごとをラディカルに直視しない態度というのはよくなかったんだろうと思う。

7月28日

歴史とか理性といった抑圧的な物語を人びとは粉砕し脱構築し解放された。にもかかわらず、人は自由で光が舞い散乱するシンボリック〈記号的〉な世界で生きることに疲れてしまうのはなぜなのか。あるいは物神を崇拝し、あるいは神話や物語の中で生きることを求めてしまう。

7月27日

コスプレとかナイトプールとかラブホ女子会とか、物語なき舞台というのはアリなんじゃないかと思いはじめた。


承認の問題で課題なのは、人間はそもそも多様であり差異にみちあふれているはずであるのに、人々は結局のところある種のシンボルのみをロール・モデルとして、それに憧れ自己を同一化しようと近づくために生きてしまうということ。

あるいは、他方で、みなは平等な存在であるべきという理念があり、にもかかわらずそれらは機会の平等などという欺瞞的なもので片付けられ、結局のところ階層化されたところを目指すことがゲームのルールとされてしまっているということ。

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