新宿武蔵野館で映画『ウィッチ』を観た。
夏らしく、とても怖い映画だった。
観ている間、シアターのその暗闇の中で、背筋の寒気が収まらなかった。
この映画では、とにかく「音」に恐怖を感じた。
「何が怖いのか」と考えるより先に、言葉にしにくい恐怖に身体が反応している。
まさに、そういったタイプの作品であった。
音は怖がらせるための演出というだけではない。
姿の〈見えない「魔」〉は「音」になって登場人物たちに忍び寄る。
「音」はまさに映画の構成要素であった。
この映画は〈見えないもの〉を怖れ、〈見えないもの〉に苛まれる話だ。
家族間の不和、生活の不安、父親の隠し事。
厳格な信仰生活に塗り隠されていた不信が末っ子の失踪を境に表面化していく。
そもそも、在るものを無いと、無いものを在るとしていたからこそ歪みが生まれ、見ないようにしていたからこそ〈見えないもの〉がやってきてしまったのではないか。
この映画の中で起きていること(特にラストシーン)を主観か客観かと問うことには、あまり意味がないように思う。
人の心が生んだとも元から在ったとも、それは言い難い。
驚くべきはむしろ、最後に姿を現す超自然的存在が、そこに至るまでの積み重ねでなんの違和感もなく受け入れられるようになっていることであろうか。
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