若者の街とユース・カルチャー ~ 渋谷,音楽,ファッション ~

自分が大人になると、若者の姿を見ることがなくなる。 もしかすると僕らの知らないところで「若者」はひっそりと絶滅してしまったのかもしれない。 そんな気分になることがある。 もちろんそれは何かの勘違いのようなものだろう。 インターンをこなしている大学生、リクルートスーツの就活生、しっかりと勉学に務めている大学院生の話は聞くことがある。ありきたりでつまらない、たまらない話。 「実学」重視の就職予備校や職業人養成学校となった学園で職業訓練者たち学生らは、そのモラトリアムをどのように過ごしているのだろうか。 (実学なんて、糞食らえだ。雑学の方が、まだましだ。と、思うこともある。教養はどこに行った?時代の流れには逆らうまい。せいぜい、社会のために働くと良いと思う。) もちろん、下の世代の若者に対して批判をしても仕方がない。 はたして、いわゆる「若者」はいまでもいるのだろうか。 むしろ、かつての「若者文化」はまだ生き残っているのだろうかというのが、気になるところだ。 おそらく、若者像自体大きく変わっている。 皮肉な言い方だが、変わるべきものが変わり、変わるべきでなかったものが変わっているのだろう。 ...

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存在探求のためのメモランダム/言葉をめぐる冒険/浮遊への逃避行

存在探求のためのメモランダム ハイデガーの『存在と時間』を手にしている。 古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。 ハイデガーは言う。「哲学や形而上学の本来問うべき問いは『存在とはいかにあるのか?』ということである」と。 けれども、これは単に論理形式上あるいは実体化された「有・無」や「揺らぎ」としての「存在」ではない。 むしろ、「在り方」への問いであるし「有意味とはいかなることか?」という問いである。 もし神がいないのならば、全てが許される。 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』イワンの台詞だ。 もし神がいないのなら 実存が本質に先立つ。 このような言葉でサルトルは語った。 あるいは三島由紀夫の「豊饒の海『天人五衰』」のラストシーン。 しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。…… 近代はルネッサンスの人文復興が嚆矢となり、神との決別からはじまった。 しかし、だからこそ、デカルトは神の存在証明を行なったし、カントは理論理性によってはいかなる方法によ...

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映画『君の膵臓をたべたい』を観る。

東京に来ている母と妹が『君の膵臓をたべたい』を見るということだったので一緒に見て行ってきた。 普段、自分では選ばない映画を見れたことが良かった。 上手くまとまっていたと思う。 一般的に、この手の物語で避けて通れないのが、病気や事故で主人公が亡くなるというケータイ小説的な安易さ。 この映画では、高校生カップルと死が結びつくだけで生じるチープさを避けるため、死を敢えて重く扱わないようにつくられていたのだろう。 それが余命幾ばくもないヒロインが醸すファンタジー性と、他人と向き合おうとしない主人公の当初の薄情さからうかがえる。 この土台をしっかりと踏襲しつつクライマックスでヒロインのリアルとそれを受け止めて変わる主人公の姿を描く。 ヒロインはなぜ自身の最後を主人公に託したのか。 これは実にうまく表現されていた。 彼が最後に送ろうとして消したメールの長文、結果として最後に送ったメールの文章、それに完全に呼応する形で長い年月を越え届いた彼女からの最後のメッセージ。 最後の言葉。これがもたらした彼の変化によって彼女は彼や親友の心に永遠に生き続けることになる必然。 若いキャストで痛々しくも瑞々しさを備...

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「幽霊的身体」から考える – 『ゲンロン5』「視覚から指先へ」 梅沢和木×東浩紀 トークショーを観る。

青山ブックセンターでのゲンロン5の幽霊的身体イベントに参加した。 『ゲンロン5 幽霊的身体』は、演劇や絵画など表象文化論をテーマにした本であった。 イベントでは、梅ラボの梅沢和木さんと東浩紀さんによるトークが聞けた。 話題の中心は、身体というよりは視覚であったかもしれない。 いや、むしろ、僕はそのような視点での解釈をして、会場から楽しみを得た。 視覚について 東さんは、視覚がその物質的な速度の影響などもあり他の感覚器とは異なるという話をし、加えて視覚は多く脳により補完されているという話をしていた。 視覚が他の感覚器と異なる、特別な感覚器であるというのは、どういうことだろうか。 それは、フッサールの志向性と関わるものだろうかと感じた。 たしかに、視覚は状況を静的に受容しているわけではなく、フッサールのいうところの志向性から対象を捉え、その後対象から得た印象を1つのゲシュタルトとして表象に描いていく。 それは、単に(経験論的に)外部の刺激を受容しているわけではなく、むしろ描くべきものを選択し表象を形成しているといえるのかもしれない。 また、哲学的に視覚は大きな意味があるという話があった。 ...

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『ふたりのキャンバス』を観る。

『ふたりのキャンバス』を観る。 それは毎年のように、あるいは風物詩のように、なぜか8月にあるNHKの戦争テーマのドラマ。 被爆者の体験を聞きながらそれを1年がかりで絵にする女子高生の話。 戦争の記憶を若い世代が引き継ぐことが描かれるのだろうと思っていたが、そう単純ではなかった。 軸となるのは主人公と友人・主人公と被爆者の方との関係にある。 次第に距離が近づいていく2人の学校生活と並行して、被爆者の方とのやり取りも進んでいく。 主人公を取り巻くこの二つの関係が行きつく結論は他人の事や昔の事は分からないということである。 しかし、だからこそ、自分でしっかり考えないといけないし、そこから導き出された答えがあればそれで十分なのだ。 下書きや絵の具で描いていく過程を追い、主人公が1年を掛けてようやく完成させた絵は最後に見切れるような形で一瞬しか映らない。 それを見に来た被爆者の方はきっぱりと「記憶とは違う」と言う。ただ、続けて「あんたの絵がええ」と褒める。そこに自分で考え導き出した答えがあったからだろう。 主人公が描いた絵を受け手に最後まで見せなかったのは、あなたもあなたの力で描いて下さいという...

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