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青山ブックセンターでのゲンロン5の幽霊的身体イベントに参加した。
『ゲンロン5 幽霊的身体』は、演劇や絵画など表象文化論をテーマにした本であった。

イベントでは、梅ラボの梅沢和木さんと東浩紀さんによるトークが聞けた。
話題の中心は、身体というよりは視覚であったかもしれない。
いや、むしろ、僕はそのような視点での解釈をして、会場から楽しみを得た。

視覚について

東さんは、視覚がその物質的な速度の影響などもあり他の感覚器とは異なるという話をし、加えて視覚は多く脳により補完されているという話をしていた。

視覚が他の感覚器と異なる、特別な感覚器であるというのは、どういうことだろうか。
それは、フッサールの志向性と関わるものだろうかと感じた。
たしかに、視覚は状況を静的に受容しているわけではなく、フッサールのいうところの志向性から対象を捉え、その後対象から得た印象を1つのゲシュタルトとして表象に描いていく。
それは、単に(経験論的に)外部の刺激を受容しているわけではなく、むしろ描くべきものを選択し表象を形成しているといえるのかもしれない。

また、哲学的に視覚は大きな意味があるという話があった。
これは個人的な印象なのだけれど、客観=ヘーゲル=ロマン主義、主観=ハイデガー=実存主義につながっているような気がしている。
歴史的には、それらが入り交じった時、ある種の狂想曲が響いたのではないだろうか。

あるいは、主観・客観以外の視点があるとすれば、第三の視点はどのように表現されるものなのだろうか。

第三の視点は、一方には主客両者を持っている視点、他方には両方を持っていないと考えられるが、むしろ主客が未分離の視点なのではないか。
無意識が世界を見ているような、夢のような。

というよりも、実はそれは視覚ではなくそしてゆえに視点と呼ぶべきではないのだが、感覚が統合されあるいは記憶によって、あたかも視覚であるかのように想起されてしまうということではないか。

主観と客観 – あるいは「視点」について –

「主観と客観」問題は、近代哲学が抱えていたアポリアだった。
デカルトからはじまり、ホッブズやヒュームのイギリス経験論、ドイツ観念論のはじまりとなるカント、現象学を生み出したフッサールまで、「主観と客観」は認識論の難問としてある。

「主観と客観」について「視点」というパースペクティブから考えると、やはりまず客観それ自体の存在が懐疑される。
主観を離れた視点が存在するだろうか。世界を眺める、眺められた像は主観に基づいている。たとえ、客体を眺めていても。

後ろからの視線、自分の背後から世界を眺めている映像を想定する。
ゲームにおけるTPSの視点。まるで幽体離脱のように、自らを眺め同時に世界を眺める視点。それが主体をも含めた客観的な視点だろうか。
しかし、かかる視点はあくまで可能性の虚像に過ぎない。もちろん、現代では映像技術を用いることでそのような視点は可能だ。

それはこのような状況だろう。

自らを撮影しながらディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。それが映し出されたディスプレイを覗き込む自分。

繰り返し、また繰り返し。終わりなき悪夢のように、コンピューターをシステム・ダウンさせる計算式。おそらく、これは客観ではない。
いや、むしろ、辿り着けないという意味で客観を示している。客観とは、神〈創造主〉の視点に他ならない。西洋において客観が希求されたことはそうであろうなと思う。

絶対不可能なその地点を、超越と呼び、そこを求め続けるのも悪くはない。決して消えることのない光のような、裏切ることのないアイドルを追いかけるようなものだ。そして、そこにはユートピアがある。

他方、そこから出口を求めるのなら今のところルートは3つある。〈存在論的脱構築〉,〈郵便的脱構築〉,そして〈両性具有の天使(混成生物)の歌声〉。
また、〈存在論的脱構築〉は革命に結びつき、〈郵便的脱構築〉は仮想世界に結びつき、そして〈両性具有の天使(混成生物)の歌声〉は身体と結びつく。もちろん、かつて身体的革命の挑戦があったわけではあるし、革命は身体と結びつきがつよい。

個人的には、〈両性具有の天使(混成生物)の歌声〉を推したいところがある。
それは、僕が色盲であるからというのもあるし(赤?緑?青?なんらかの色への認識が弱いのだ。ゲーテも言っている通り、哲学への関心は、色に対して人をいらだたせるのかもしれない。“牡牛は、赤い布を広げて見せられただけで狂暴になる。が、哲学者は、色彩のことが話題になるだけで逆上しはじめる。”)、音楽を聴くのが好きだから、というのがあるかもしれない。あるいは、かつてのオルダス・ハクスリーへの傾倒がいまだに影響しているのか。

そして、幽霊的身体は仮想的身体と言い換えることもできる。
であるならば、ある意味では、仮想的革命というものも想像することは可能かもしれない。

身体について

内在と外部のインタフェースとしての身体みたいなことを考えることがある。

梅沢和木さんは、音ゲーの習得が、その後の絵画制作の役になったという話をしたが、それは内在的超越を身体を用いて外部化することではないか。
存在を身体表現で連関させること。

ハイデガーは言葉を存在の住処だと言ったけれど、身体こそ有と無と揺らぎを含んだ存在の住処ではないか。

今回のイベントでは、メルロ・ポンティ『眼と精神』がふれられていた。
サルトルもそうだが、現象学は視覚と身体に関連が強そうな印象を受ける。

思えば、最近、六本木の美術館で「ジャコメッティ展」が開かれていたけれど、ジャコメッティのつくる彫刻の身体が恐ろしく細く、かれが愛した女性たちがむしろ豊満な身体を持っていたこと。
そして彼が実存主義やサルトルとともに語られていたことは何かどこかしら象徴的だと感じるところがある。

それはともかく、イベント当日は、外苑前から青山まで歩いたのだけれどショー・ウインドウに映る自分の身体を客観的に見て、あるキーワードが思い浮かんだ。
「ダイエット」。

第三の視点のあり方

とはいえ、現在というシチュエーションやテクノロジーを考慮にいれ、アクチュアルに主観・客観以外の第三の視点がありうる方向を考えると、1つの世界を同時的に複数の目で捉えるという視点になるだろうか。
そして、それを統合し再現すること。
梅沢和木さんの作品はそのような視点でつくられているだろう。サルトルに『自由への道』という小説があったが、それもたえず視点が移り変わるような描写がされていたような記憶がある。

他方、主観は身体性とつながるものがある。
VR技術は他者の主観・視点・認識・世界観を体感し共感するための装置になるのだろうか。

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