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存在探求のためのメモランダム

ハイデガーの『存在と時間』を手にしている。

古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。

ハイデガーは言う。「哲学や形而上学の本来問うべき問いは『存在とはいかにあるのか?』ということである」と。

けれども、これは単に論理形式上あるいは実体化された「有・無」や「揺らぎ」としての「存在」ではない。
むしろ、「在り方」への問いであるし「有意味とはいかなることか?」という問いである。

もし神がいないのならば、全てが許される。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』イワンの台詞だ。

もし神がいないのなら 実存が本質に先立つ。

このような言葉でサルトルは語った。

あるいは三島由紀夫の「豊饒の海『天人五衰』」のラストシーン。

しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……


近代はルネッサンスの人文復興が嚆矢となり、神との決別からはじまった。
しかし、だからこそ、デカルトは神の存在証明を行なったし、カントは理論理性によってはいかなる方法によっても神の存在証明はできないとしながらも道徳・実践的見地から神の存在を要請した。
ここで言う神は多神教の神ではない。それは一神教のGODである。
神はこう言いかえることもできる。神‹創造主›=客観=絶対法則。

ふりかえれば哲学の歴史はギリシャ悲劇のようであった。
プラトンからはじまりヘーゲルに至る形而上学の神殿はくしくもその根底から崩れさった。
アポロンの神殿はディオニュソスの叫びに飲み込まれた。
潮騒香る風景はその景色を一変させる。

その上、ひょっとしたら、この私ですらも…。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった。

などてすめろぎは人間となりたまいし

神は死んだ。

他方、神なきユダヤ人のマルクスやレーニンは、客観的でもっとも正確な科学や歴史を信じた。
自由で自律した人間のユートピアを夢みて。
そして牧師になるという母の夢のために神学信徒であったスターリンも、神を棄て共産主義に傾倒する。

ブハーリンは呟く。

コーバよ、なぜ私の死が必要なのか?

言葉をめぐる冒険

村上春樹の『羊をめぐる冒険』の羊は、西洋哲学・現代思想の言葉でいえば「形而上学」そのものなのだろうと感じている。
人に幻想を抱かせ操るもの。

だからあの物語は『言葉をめぐる冒険』と名付けることもできる。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね

形而上学の果てともいえる「1960年代」近代の終焉に起こったのが若者たちの”知性の叛乱”だった。
それは形而上学=哲学=理性を、=現実たらしめるための進歩主義的革命だった。
しかし、「僕」はその中で彼らイデオローグたちの「言葉」の欺瞞に気づき、それとの闘争/逃走を開始する。

村上春樹と同世代、全共闘世代の小阪修平は言っている。

同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった

「羊抜け」だ。

小阪修平もなかば離人症のようになったという。
誰もが、語る言葉を失った。

歴史の終焉、革命の終わり、宴の後。
1970年代はさめざめとした殺伐とした風景を思わせる。

1970年「よど号ハイジャック事件」、1971-1972年「連合赤軍事件」。
文化面では、1972年『木枯らし紋次郎』、1973年『氷の世界』、1974年『傷だらけの天使』、1975年『僕たちの失敗』、1976年『いちご白書をもう一度』。

イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われた次の年、「ダッカ日航機ハイジャック事件」の翌年、1978年に村上春樹は処女作『風の歌を聴け』の執筆を開始する。

その小説は、歴史の終わり=観念の王国の崩壊=羊が離れた年、1970年の8月8日からはじまる18日間の物語だった。

浮遊への逃避行

僕はむかしから幻覚にすごい関心を持っていて、それは世界の認識とか在り方と係わっているものだと思っている。
そして、オルダス・ハクスリーやティモシー・リアリー、ヒッピー・ムーブメントはそれを予見したものであったのだろう。

ところで、看護師の姉から聞いたのだけれど、手術後、人は一般的にせん妄を抱く傾向があるらしいという。
そういう意味では、人間の意識というのはきわめて不安定で浮遊したものだと思う。

この意識の不安定さというのは本来ぼくらが世界とつながりを持つ上で忘れてはいけないものだと思っていて、この浮遊を捨てて理性(論理)による固定に偏るとある種の抑圧や理性の暴走につながるのではないかと考えている。

だから、この意識の不安定さというものこそが、ヒューマニズムそのものといえるだろう。

また、 この意識が浮遊した意識状態というのは経験≒論理による既成概念の固着をなくした状態、エポケーに近いものではないだろうか。
そして、その状態において、身体性に重心をおいて捉えればヨーガになどにつらなるものとなり、他方言語的な方向に重心がかかれば詩的なものになるのだろう。

それは、ある意味でポスト・モダンが思い描いていた状況によく似ているものではないだろうか。
かつて解放区で行動していた小坂修平は、そのポスト・モダンの重みを後年語っていた。

しかし、欲望は、リゾーム化したバベルの塔を夢視たいのだ。

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