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『サルトルの世紀』という本を読んでいる。
サルトルと20世紀、その時代と思想について書かれた本だ。
注釈を抜いて全体で800ページ、まだその3分の1程度を読んでいる段階なのだが、第1章「世紀人」の末は50ページばかり「ハイデガー問題メモ」としてハイデガーの思想とその問題について描かれていた。

ハイデガーについてのテクストを読んで思うのは、ハイデガーの思想のその危険性というのは両義的であって、その危険はむしろ僕らが求めなくてはいけないところにあるということがある。
それは、本来的なあり方・非本来的なあり方という考え方だ。


三島由紀夫は昭和45年に以下のような文章を残している。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

三島由紀夫もまた本来的なあり方を求めた作家だった。


ポピュリズムや全体主義は闇の中から登場するのではない。むしろ、希望として、光としてあらわれる。それは、非本来的な現状を切り崩すものとして、本来的なあり方を再建しようとあらわれる。
問題はその現れ方が、本来的なあり方を生きる者としての改革者と、非本来的な大衆に分別されることだ。

吉本隆明は「大衆の原像」という言葉を語っていた。それは統整的理念であって、そのあり方は示されてはいない。それを構成的理念として普遍的なものとして表現することは難しい。あるいは、東浩紀の「観光客の哲学」というのも近いところを示すものだろうか。

大衆にとっての本来的なあり方、他者を非本来的なあり方であると糾弾する必要のない本来的なあり方を示すこと。
たとえば、サルトルの「自由」の哲学は最終的に滑稽に見えるものとなり、ポストモダンの「逃走」の哲学は疲弊してしまったが、しかし、そのような思想のアップデートが要請される。

ヒューマニズム/反ヒューマニズムの問題と現代

ヒューマニズム/反ヒューマニズムの問題は現代における非常に大きな問題だと思う。

振り返れば、僕らはヒューマニズムの危険性について、もっと真剣に考えているべきであった。
けれども、たとえば、ソビエト問題,ナチス問題,連赤問題,オウム問題など、僕らはそれらを総括できていないのではないか。むしろ、こう決めつけてはいないだろうか。彼らは、頭がおかしくなっていて、あるいは頭のおかしな人間に操られてしまったのだと。

現代における問題は、もちろんヘイト・スピーチや移民排斥などにつながってくるものだ。
もちろん、そこには経済的なあるいは治安など社会的な問題も含まれてはいる。しかし、より深刻な問題は、ヘイト・スピーチや移民排斥を訴えている人々はむしろそれがあるべきあり方、ヒューマニズムに根ざしたもののあり方だと考えて行動をしていることだ。
ましてや、システム,権力者,ブルジョアが火の元だと断言するのは陰謀論的な何かであろう。

さらなる問題は、リベラルと称する人々が、ヘイト・スピーチなどを行う人々の思考・行動を、単なる悪、非ヒューマニズム的なものとして対抗していることだ。彼らが戦っているのは、非ヒューマニズムではない。それらは、ヒューマニズム的なものの現れだ。であるならば、それらに対して、ヒューマニズムを武器として戦うのは有効なのだろうか。それこそ、「神々の戦い」のような「ヒューマニズムの戦い」になるだけだろう。

ヒューマニズムの暴走に対抗する武器。すると、問題は、反ヒューマニズムをどこから取り出すかということになる。

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