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『三度目の殺人』を観てきた。圧巻。
司法制度・死刑問題・真実とは何かなど、切り口は多様でしかも手垢がついたものばかり。しかし、これを是枝監督が映画にするとこれまでには到達しえなかった情景が浮かび上がってくる。

制度・問題・真実、これらは全て人間によってつくられたものである。

脆く移ろい易い人間の心理の上に成立する諸問題の責任はどこに希求するのが正しいのか。本来、人はそんなことを考えることなく日々を過ごしている。或いはある程度打算的な人間なら、社会や自己のルールを弁えて上手く立ち回ることができるだろう。本作の主人公はまさにそのようなタイプの人間である。

主人公・重盛の冒頭からの幾つかの台詞で、彼のパーソナリティは強烈に伝わってくる。その彼が弁護を引き受けた三隅という二度目の殺人を犯した犯人と接見する中で、彼の異常なまでの主義が簡単に翻弄されてしまう。この二人のやりとりが晒す人間の心理こそがこの映画の肝だろう。

接見の全容を明かすと、面会を重ねていくうちに弁護士の重盛は殺人犯の三隅と似たような考えの持ち主だったということが分かり(同情により感情移入してしまったという事では全くなく)、次第に自分の確固たる主義を逸脱してまで三隅が隠し続ける「真実」を追い求めてしまう。

このストーリーラインに拍車がかかり、真実に辿り着くことこそが救済の施しのように歪んだ形で描かれていく。一方で、その真実は特定の人物によってつくられたものにしかすぎず、司法などの場においては無力であるという残酷を描いていることにもなる。

劇中で三度目の殺人は起きない。では、三度目の殺人は誰が誰を何を根拠にどう殺したのか。大体の推測はできる。それを阻止しようとした重盛と殺人者とのシンクロによる当惑、犯人(=自身)を殺してまで手に入れたかった真実は果たしてそれほど必要なものだったのか。

作品内の台詞にもあるし監督もインタビューで答えているが、真実は誰にも分からない。それでも司法の場においてはある程度合理的に善悪を整理しないといけない。それも人間の手によって。それが怖く責任を追うのが御免だから弁護士・検事・裁判官は示し合わせたようなやり取りを法廷で済ませる。

主人公はその血の通わない制度に見事に順応したエリートだった。
しかし強い人間の心理が崩れ去るというのは、その人間たちによって築き上げられた制度の全てが不安定だという事を露呈させる。そこまでのリスクを負って人は真実・善悪・正義と向き合うべきなのだろうか。恐らくそれは誰も知らない。

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