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時代が大きく変化している情況において、より大きな動きが見られるのはもっとも開発されもっとも進んだ先進国ではない。

むしろ、ある種のつまずきを抱えてその遅れを取り返そうとしている国において、大きな動きが見られる。帝国主義時代のドイツ・ロシア・日本がそうであったろう。

そして、今のロシアはまた同じようにつまずきを抱えて、それを乗り越えようとしている。
であるならば、これからの21世紀の相貌の一端がまた見られるのは、ロシアの現代思想からなのかもしれない。


現代思想としての哲学は、20世紀に取り残された1つの課題を抱えている。

それは、しばらくのあいだ忘れ去られていた課題、「近代の超克」の問題だ。

思想史的な現代の情況をみたてると、ヒューマニズムにより近代を超克しようという熱病が再燃しているのが現在だろう。

近代哲学の完成がヘーゲルだというのは意見の一致するところだが、そこからの超克を目指して19世紀後半から20世紀前半に展開されたのがニーチェやマルクス,ハイデガーやラッセルなどいわゆる反哲学=現代思想としての哲学だった。

19世紀の近代化された世界は問題を抱えていた。
それを乗り越えるために20世紀に企画・実施された壮大なプロジェクト、反哲学的な思想をふまえて近代の超克を目指して提起されたのが、⑴マルクス=レーニン主義によるソビエト型社会主義(共産主義),⑵ナチスなどのファシズム的な国家主義(国家社会主義),そして⑶ケインズ的な修正資本主義(国家資本主義)だった。

ざっと20世紀を振り返れば、上記の⑴マルクス=レーニン主義と⑵ファシズムが倒れたのは自明であった。
そして、現在は⑴・⑵の体制が崩れ去ったその後で、⑶の修正資本主義(国家資本主義)だけが残りはじめの意図を超えて爆進しているというのが実情だろう。

しかし、その課題をきちんと見つめ捉え返さなければいけない時が来ているのではないか。
そもそも、マルクス=レーニン主義やファシズムが現れたのは、ヒューマニズムからであった。
理性的な人間を中心とした近代的な思考と社会システムが、かえって人を疎外し抑圧するものとなる。その阻害に対してのノン、異議申し立てから湧き上がったのが、マルクス=レーニン主義やファシズムであったのだから。

それらがヒューマニズムから湧き上がったものであれば、現在の問題であるヘイト・スピーチやテロリズムの問題が、またヒューマニズムを源泉としていることは明らかだろう。
彼らは、本来的な人間のあり方を訴えるナロードニキでありボリシェヴィキであるのだ。

ヘイト・スピーチやテロリズムがヒューマニズム?ナンセンス!
確かに、ナンセンスと思われるかもしれない。
しかし、たとえば代表的テロリストとしての日本人、重信房子の言葉を引用してみよう。

“隊伍を整えなさい。隊伍とは、仲間であります。仲間でない隊伍がうまくゆくはずがないではありませんか”

届くならちぎれるまで手を差し伸べたい。

革命に向けて、同志たち、友人たち。燃える連帯を込めて、勝利の日まで。さようなら。

『週刊読売』1972年4月15日号 赤軍派アラブ代表 重信房子

見誤ってはいけないのは、彼らは単に憎悪に燃えた人間ではなく、抑圧されたシステムからの解放を願う本来的なあり方を求めるヒューマニストそのものなのだ。

そこでは右翼や左翼といったイデオロギーの方向は大きな意味を持たない。
個別具体的な事例ではあるが、重信房子の父親が血盟団事件に関わった右翼組織の門下生であったことは有名な話だ。
むしろ、「小さな親切運動」に熱心に取り組むような人情に篤い少女であったこと、このヒューマニズムが反転したところでテロリズムに至ったと考える方が自然なのだ。


だが、問題はロシアだ。
東方正教会の信仰とツァーリへの崇拝が一体となったヨーロッパの反動ロシア。大衆のためのインテリゲンチャ、ナロードニキによるテロリズムの国ロシア。
そして、レーニンにより領導され理想のユートピア国家ソビエトを建設したロシア。

そのユートピアの夢はスターリンにより悪夢へと変わる。ディストピア国家、赤い帝国。
しかし、ソビエトは70年間でその歴史を終える。
後に残ったのは、意味も価値観も何もない戦後思想のような、フロイト的超自我としての父を持たないロシアだった。

「ゲンロン6」 共同討議で感じたのはある種のイデオロギーと神秘主義の国ロシアだった。

ロシアにおけるイデアとマテリアルの結びつき、象徴的なものの壁を突破して聖なるものに触れたいという欲望、あるいは父のいないロシア=カルフォルニア的な神秘思想。

しかし、これは、どこかで見たような景色だ。
オウム真理教の身体への直接刺激による超越への跳躍、捨てられた子供としての教祖・麻原彰晃と繋がるものを感じるのだ。
1995年の事件、20年以上前の話だ。
今では、95年をめぐる心暖まる伝説のひとつに過ぎない。

これはオウム以前の類似現象としての連合赤軍。1972年のあの事件にも似たものを見い出せる。
あのリンチ事件も単なるヘゲモニー争いからの暴力ではなく、森恒夫による「殴ることによる総括。殴られ気を失うことにより、次に目覚めた時に共産主義化された人間として生まれ変わる。」という超越への跳躍だった。
そして、父なき時代、丸山眞男が殴られる時代の帰結だったのだ。

“暴力を包み込む保護者不在”

たが、これも今では些細なことかもしれない。
結局のところ、それらは、エルンスト・レーム率いる突撃隊のように、あるいは北一輝と二・二六事件のように時折歴史の舞台の上に現れる何かなのだろう。

だが、乗松享平さんの「敗者の(ポスト)モダン」にもあるように反体制的ナショナリストとソ連の「ロシア性」が結びつく様相、哲学者アレクサンドル・ドゥーギンとラディカルな若者たちの動きはあるいは同じような構図にも見える。1930年代的な様相。本来的なあり方を求める志向性。一気に革新に進もうというそのラディカルなスタイル。
反復される普遍性だろうか。
しかし、本来的なあり方があるなら、非本来的とされるあり方は?ここでは、言うまでもなく、米国式リベラリズム=グローバリズム=リバタリアニズムだろう。

新たなる本来性の物語

しかしながら、本著の特集の中心とされているアレクサンドル・ドゥーギンの思想は確かに人を納得させ魅了するだけの力があるのではないか。

そのチャート式やポストモダン的なスタイルはわかりやすく、またブラヴァッキーのような神智学的な世界認識は、世界に対して違和を抱いているものに真実を与えるものだろう。

他方、ザハール・プリレーピンは、戦後何もないところの虚無主義から舞台で演ずる役者となった三島由紀夫の再来のようだ。

流石に世界文学の国のポスト・トゥルース・ストーリーといって良いように思う。

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