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『三度目の殺人』を観る。そのモティーフは、あるいは『地獄の黙示録』の変奏のように響く。
そこには真実から目を逸らして欺瞞に満ちた世界を生きることへの批判が通奏低音として流れている。
役所広司演ずる犯人は、カーツ大佐、あるいは反転した裁かれるソクラテス〈ニーチェ〉。

福山雅治演じる弁護士は犯人にこう呟く。「あなたは器?」その空虚、無意味さは、実存的な『地獄の黙示録』と関わるところにある三島由紀夫の『豊饒の海』と重なるものがある。

あるいは現代社会/法治国家における存在の忘却、その欺瞞性を暴くものでもある。
‪満島真之介演ずる部下のギャルソン精神。‬
‪「生まれた意味のない人間などいない!」と叫んだ時の、あの歪んだ勝ち誇ったような表情。溢れるヒューマニズム。吐き気だ。‬

タイトルの『三度目の殺人』は、存在を忘却した欺瞞的法治国家による死刑を意味するところか。誰が、誰を裁くのか?本当のことには意味がないのか?意味がないとすれば、誰に誰を裁くことができるのか?
法治国家における価値・意味の最終審級としての司法。その欺瞞。何たる傲慢!何たる破廉恥!何と醜悪な恥知らずだろうか!?

広瀬すず演ずる少女はこう呟く。
「ここでは誰も本当のことを話さない。」
こことは裁判所を意味する?勿論そうだ。
そして、それは社会そのものを包み込んでいるのだ。

ソフィスト的存在であった弁護士は次第にソクラテス的犯人に惹かれていく。カーツ大佐に惹かれていくウィラード大尉のように。
そして、犯人と広瀬すず演ずる少女との愛はキリストの愛、罪を拭い去る救済であったのだろうか。それこそがプラトニックな愛なのか。

「だけど、それが本当だとしたら、良い話ですね。」
それはまた、ポスト・トゥルース的状況にある現代。相対主義が終わりを告げているところの現代を象徴するものでもある。

『地獄の黙示録』との違いは、またもや、「家族」というところだろうか。それは真実を持たない世界での人と人との結びつき、いかにして共同主観性を構築するかというところの問題でもある。主人公の言葉「理解とか共感とかいらないんだよ」その言葉が反射して重みを持ち跳ね返ってくるのだ。

‪1羽だけ逃したカナリヤは、パンドラの箱に残ったものと同じもの、希望なのだろう。‬

斉藤由貴の不倫疑惑やスキャンダラスな週刊誌に追いかけられているところを虚構と現実に重ねて語るのはゲスのやるところかと。

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