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ドラマ『僕たちがやりました』最終回を観る

まずは、第2話を観たときの感想から。

初回見たときにサスペンスとしてもコメディとしても学園ものとしても中途半端だなとガッカリしたけど、もしかしたらこの物語が目指しているのは今の若者のリアルな成長譚なのかもしれないと考えたら面白く見れるようになった。

そこそこ幸せやそこそこ楽しいがモットーで、それを不自由なく享受し続けたいと思う呑気な主人公にふりかかる外圧。
人を殺してしまったかもしれないという状況への後悔や焦燥の一方で集中力や興味が続かず、都合の良い解釈や脱線で事実をうやむやにしようとする。
ここら辺の描写が今の若者っぽい。

このレベルの窮地に於いてなお、幼なじみへのエロい思考回路や海外逃亡という短絡的な推測。
正直痛々しいほどだがもしかしたら今やこのような予期せぬ外圧以外に人を考えさせたり成長させたりする要因が無くなっているのではないかと考えてしまう。
彼の成長をどう描くのかが今後のポイントだろう。

「僕たちがやりました」最終回

まず、原作漫画を読んでないのに2話でこういう話になりそうと読んだ自分の見立てを褒めたい。
途中からはまさに世相を映した若者の成長譚へと化けた。
最後、トビオの屋上での演説と市橋の亡霊は少し過剰かなと思うけれど、リアルが刺さらないというのは一貫していた。

一昔前の夏の学園モノだったら総じて刻まれた一生忘れない思い出の脇には仲間の笑顔が咲いてるんだけど、これは今のリアリティじゃない。
過去の記憶と現在との線引きがクールにできる人とできない人がいて、社会に順応した友人たちと再会した主人公は未だにそれができず苦しんでいる。

それは過去と現在の線引きだけじゃなく価値観や考えの違う人間がある期間たまたま一緒になっただけという青春という名の夢幻にいた自分を割り切れないからなのかもしれない。
今の若者にとってそこそこ楽しい毎日も幻なのだろうか。
現実を生きる友人の「もう会わないかな」という台詞が重たい。

タイトルの「僕たちがやりました」、これは承認を希求する今の若者たちのシュプレヒコールのようなものだろう。
それが認められないとたちまち存在が覆される。
誰もが皆サイバースペースへ向かって「僕たちがやりました」と繰り返し叫んでいるからこそ、誰かの声でしか救われなくなってしまう。

でもその弱さは、蓮子の10年越しの「頑張ったね」やパイセンの「たまに死にたくなるのが、お前が生きてる証拠や」のようなその人の為だけの声を引き出す。
自分や家族を頼れない弱さを無防備に他人に委ねることができるのは、実はこういった貴重で幸福な経験がある人間が多いからなのかもしれない。

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