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『散歩する侵略者』を観た。うまくないんじゃないか、というところと、観たこともないものを観ているという感じが、それぞれはっきりして。
だが、自分の中では『散歩する侵略者』は今年観た映画で10作選んだら必ず入ると思う。

とりあえず、とても好きな映画だ。笑いがある。何の面白さかわからない、曰く言い難い感じがある。
それでいてストレートに愛の話(セカイ系とすら言えそうな)でもある。何より世界の終わりを見ることができる。
しかしこれは一体何の話なのか

この映画は2つのパートと2つのテーマに分けられる。
加瀬夫妻(松田龍平と長澤まさみ)のパート、記者と宇宙人たち(長谷川博己と高杉真宙と恒松祐里)のパート。
前者は愛、後者は侵略。
その両方に共通するのは人間の「概念を奪う」という設定。
この「概念を奪う」というのがちょっと扱いに困る。

これが言葉に寄りかかりすぎていて、映画という表現にうまく合っていない気がする。
この辺は舞台と映画の違いに原因があるのか。
映画と舞台の違いについては、パンフレットのインタビューに監督と原作者がそれぞれ言及している箇所がある。

黒沢清は「加瀬夫婦の話に関しては原作に近い流れ、日常を中心にして起こる夫婦の疑心暗鬼を描くことにし、一方で桜井側は最初から日常とは切り離された世界で起きていることを描いている。舞台ではそうあちこちに移動していくのは難しいですから、そこを映画では広げていきたいとも思いました。侵略SFというジャンルの、娯楽性の高い部分を桜井側で可能な限り表現していこうと」と語っている。
確かに、映画としての動きの大きい桜井側の話は観ていてひたすら楽しかった。
しかし、舞台の表現方法が映画に合わなかっただけかというとそうでもないと思う。

面白いと思ったのは原作者の前川知大の以下の発言。
「見た目ではなく意味で宇宙人を見せる、ということをまずやりたかったんです。たとえば舞台では生身の俳優たちが観客の目の前で動くので、嘘はすぐにバレてしまう」
「舞台上で俳優が宇宙人のメイクをして演じても、それは特殊メイクをした人でしかないので、観客にとってのリアルではありませんよね?」
「映画ならばディティールを詰めていけば日常での違和感も作れるのですが、そこが舞台だと陳腐に見えてしまう」
「人間と姿かたちは同じだけど中身が違う。それが、見た目ではなく意味で宇宙人を見せるということです」

「意味で宇宙人を見せる」が、意味を変えて違うものを見せることだと考えると、この映画でやっていることにも当てはまる気がする。
物語の違う顔を見せる、あるいは、見慣れた話が全く違うものに姿を変える。
冷え切った夫婦関係、記憶喪失の男、バラバラ殺人、侵略者を自称する妙な少年、これらが、SFな小道具も(まがい物感あふれる通信機を除いて)CG表現もなくても宇宙人の侵略の話になり、反対に侵略SFが関係の再構築の話に、愉快なロードムービーに、愛や概念が云々の話になる。

概念を奪う設定については、むしろこれは物語上の装置というか、括弧に入れて脇に置いておくものなのかもしれない。
というのは、これをSFや何かの寓話として捉えようとすると綻びが目につくからだ。
概念を一つの独立したものとして好きにやり取りできるのは、SFとしては緩すぎるだろうし、「人間はいろんな概念に縛られている」という寓意に持っていくのは安易に思える。

言葉の多さは逆説的に言葉を宙づりにする。
侵略、宇宙人なんてベタなフレーズは、括弧が付いていて中身は空っぽなんじゃないかと思えてくる。
下手な喩えだが都市伝説のメン・イン・ブラックを連想する。
見た目は人間なんだけど言動が不自然だったり、硫黄の臭いがして地球外生命体というよりは悪魔に近かったり、何かと考証が緩い存在。
そういえば概念を奪うときの暗転と光は昔のUFO表現みたいだ。
観る人皆の記憶の中の宇宙人という感じ。
それでいてベタに宇宙人の侵略SFであり愛の話でもある。不思議だ。

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