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是枝監督の映画『三度目の殺人』は、真実はどこにあるのか?それを問うこと、真実から目を背けないことが描かれている作品であった。
だからこそ、エクリチュールとして法治国家の欺瞞的なヴェールをぬぐい去るところがあった。

他方、こうも思った。
僕がティーン・エイジャーの頃にこの映画と出会えていればと。
だが、理解できなかっただろう?そうかもしれない。

けれども、中高生や法学部に受かったばかりの学生に『三度目の殺人』を見てもらうのはアクチュアルな意味で教育的な価値があると思うのだ。

それはある意味でリーガル・マインドを捉えることであるし、エチカを理解することにつながると思う。

もし、彼らに語れるのであれば、僕は語るだろう。

僕自身は、真実やイデアや実存にこだわりすぎて、永遠的な完全な瞬間を求めたロカンタンのように何かを台無しにしてしまった気がしているから、老婆心として。


みんな、ごく自然に常識や正しさがあると思って生きているね?
だけど、現実にはそんなものはないわけだ。
複雑に絡み合った中で、それぞれ取引があって成り立っている。
世の中は嘘に満ちている。

この現実というのはそういった嘘でできたフィクション、作り話、そうゆう設定の中で生きているんだ。

だけど、確かに本当は本当の中にみんなは生きていないのだけれど、本当を目指せばそれでいいわけでもない。
本当を目指すと、何も無いところへ、善も悪も意味も無いところに行ってしまう。
そうすると、みな不安になるんだ。自信がなくなり無気力になり。もしかしたら自殺してしまうかもしれない。

あるいは、価値がないのなら人を殺してしまおうと思うかもしれない。
同じように、嘘をついて生きる人に怒りを覚えて殺意を感じるかもしれない。

にもかかわらず、人は実際に生きているし、心も体も痛みを感じる。
それが問題なんじゃないか。本当には、意味なんてないはずなのに僕らは傷つけあうことはつらいとわかっている。

じゃあ、どうすればいいのか。
昔の人は、それを自然状態からの社会契約によって乗り換えたのだけれど、同じように僕らも意味のないところから共存するための意味を作り上げなくちゃならない。
それが、法律やルールであって、それはもともとあったものではないんだ。
僕らが、ひとつひとつ意味があり役に立つ確実なものにしていくこと。それが必要なんだ。

とか、ブラー・ブラー・ブラー。
しかし、話すというのは反感を買う行為だから、誰かがエクリチュールとして描いてくれることを期待したい。

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