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映画『GODZILLA 怪獣惑星』を観る。
「人間ドラマ」偏重の作劇も、ハルオのキャラクターも、アニメ特有の演技も、予想していたほど気にはならなかった。
登場人物のバックボーンを省略する語り口は『シン・ゴジラ』以降の物語だと感じる。
とはいえ、地球に降り立つまで数十分は、狭い場所で動きも少なく、間延びした印象は否めない。

3部作の1作目というよりは、2時間映画の冒頭を89分に引き伸ばした感じだ。
「怪獣」が登場するのは後半、ゴジラに至っては終盤も終盤でようやく姿を見られる。
だが、どういうわけか、待ちに待ったという気がしない。
気が付いたらそこにいた、という感じで、背景の中の異物になっていない。

これがアニメでゴジラをやるということなのかなと思う。
現代SFアニメのフォーマットに、ゴジラという記号(巨大で、熱線を放つ人類の敵)を乗っけた物語を語りたいのであって、特撮を再現することは考慮に入っていないのか。

じゃあ特撮っぽいとはどういうことなのかと考えた時にまず思いついたのは、現実にあるわけがない(≒作り物)という異物感と、同時にそれが本物に見えてしまう現実感を行ったり来たりする、虚実のあわいの表現だ。
怪獣は作品世界から多少は浮いていなければいけないというのだろうか。

『怪獣惑星』では、大きいものが大きく感じられないのはゴジラだけでなく作品世界にも言えることで、宇宙をさまよい地球を奪還する話がハルオ個人の執着だけで語られて、とてもスケールが小さくなってしまっている。
ただ、生き残った人類の総数やゴジラに支配された地球という環境を考えれば、物語の狭さはそんなにおかしいとは思わないし、衰退しきったさらに先、いわゆるポスト・アポカリプスという趣もあるので嫌いではない。

アニメならではの良いところといえば人間対ゴジラの接近戦闘を違和感なく描けることだ。
核弾頭100発以上喰らって無事なゴジラに単身突っ込んでどうするんだというツッコミにもちゃんと答えを用意している。(とはいえ、ゴジラ×メガギラスの方が、ゴジラに人間が飛びつく描写で巨大感を出せていた気がするのだが。)

グダグダ言ってしまったけどゴジラと戦うことすらできずに捨て去られたメカゴジラを2万年ぶりに起動して再戦するのはめっちゃ熱いので続編は楽しみにしてます。
地球脱出時のゴジラを基にしているだろうからサイズ差が大変そうだが。

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