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映画『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』 を観る。

映画『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』 を観る。 Posted on 2017年12月10日Leave a comment

物語を語ることの意味を真摯に語り切った物語に、日本文化の死生観と情緒を再発見させる映像の美しさに、音楽に、何度も泣かされてしまった。
こんなにも夢中になれる映画に出会えるとは。

主人公のクボは、三味線を鳴らして折り紙を操ることのできる不思議な力を持った隻眼の少年だ。
彼は三味線の演奏と動く折り紙の人形で「月の帝に立ち向かったサムライの物語」を語って村の人々の人気を博していた。
しかしクボはいつも結末まで語らずに物語を中断して帰ってしまう。
実は、クボ自身もその物語の結末を知らないのだ。

それは、彼と二人暮らしの母親からいつも聴かされていた、彼の一族にまつわる物語だった。

月の帝はクボの祖父でその娘であるクボの母親とクボを守るために戦ったサムライがクボの父親だった。
クボの片目がないのは生まれてすぐに祖父に奪われてしまったからだという。
クボは母親から物語を聴かされるのが大好きだったが、母親は夫を失ったショックからかその結末が記憶から失われていて最後まで語ることができなかった。

クボの物語が大きく動き出すのは村の祭りの晩、日が沈んでから外に出てはいけないという母親との約束を破ってしまったクボを母親の妹たち(闇の姉妹)が攫いに来た時だ。
もしかしたらこの瞬間までは、母親に聴かされていた物語はクボにとってはまだ絵空事にすぎなかったのではないか。というか、現実と物語が未分化で、月の帝も父親も真実性は疑わなくとも現実という実感はなかったのではないか。
闇の姉妹の襲撃は物語が現実との隔てる境界を食い破って侵攻してきたとも言える。
そのきっかけが昔話や童話でおなじみの「禁忌を破ってしまったために報いを受ける」というあらすじをなぞっているのも面白い。

闇の姉妹に捕まりそうになったクボは母親が命を振り絞って使った力で「最果ての国」へと逃がされる。
その場所は見渡す限り雪に覆われた、人間の気配すらない異郷だった。
クボは月の追手から身を守るため、母親の最後の力で木彫りの人形から変身したサルと、クボの父親の家臣だったという確信以外何の記憶も持たないクワガタの三人で不思議な力の込められた三つの武具を集める旅に出る。
クボが物語と現実を行き来するキャラクターであることは冒頭から示唆されている。
彼が母親と暮らす小島?と村は海で隔てられている。
クボに物語を教え、自身も月の帝から逃れてきた(物語側の人間である)母親が村の住人と顔を合わせることはない。
村と小島、二つの世界の境界線である橋を渡ってクボは毎日、母親から聴いた物語を村に届け、村で見聞きしたものを母親に届けている。

この作品はファンタジーだ。

クボの不思議な力も最果ての国での冒険もみな映画の中では現実である。
だが一方で、こんな風にも考えてみたくなる。
木彫りの猿が化けた喋る猿、クワガタと人間がくっ付いた武者、月の都の不死人、そんな存在がこの映画の現実に本当に存在しているのだろうか。
この映画の世界はクボの育った村と最果ての国しか描かれない。
さらに、最後の武具を求めて村に帰ってきた時、村人たちは家も建て直さずに隠れていた。
村は焼き討ちにあってからあまり時間が経っていないようだった。
クボが長い旅から戻ってきたにもかかわらず。
それに、一行が探している三つの武具はクボが母親から教えられ、村の人たちに語って聴かせていた物語に登場するものだ。

なんというか、虚構と現実の遠近法が崩れていく印象がある。
物語と現実に不思議なねじれがある。この旅は夢の中の出来事に近いのではないか。最果ての国は現実の場所ではないのではないか。
もしくは、虚構と現実の境目が限りなく薄れ、クボは自分が語ってきた物語の中で冒険をしていたのでは。そんな風に感じた。

「語り継ぐ」こともまたこの映画のテーマである。

物語はそれだけで独立して在るのではなく、それぞれの物語が繋がったり重なったり、時に対立したりする。
三つの武具を集め月の帝と対決するクボの冒険は、中断していた両親の物語を受け継いで結末を付けたとも言える。
人は死んでも思い出を語る者がいる限り生き続ける、とは残された時間を悟ったサルにクワガタがかけた言葉だ。
その話を聞いた誰かが別の誰かに語り、それをまた別の誰かに…(以下繰り返し)という具合に。語り継ぐことはいなくなった人の思い出を生かし続けること。
語り部は、いなくなった人の思い出を残された人に届ける。
あの世とこの世をつなぐ。最後の戦いでクボがシャーマン的な力を見せたことにもそれは表れている。

クボにとってこの冒険は、両親を心の中で生き続けさせるための思い出作りでもあったのであろう。
というのは、村の祭りの日、クボが墓(に見立てた石)に語りかけても何の反応がないのに(ないに決まっているが)、祖母に会えたとはしゃぐ子どもがいるという描写があったからだ。
その子どもは心の中に祖母との思い出があったから声が聞こえたという気持ちになれたのではないか。
それに対してクボには父親との思い出が無い。母親に聴かされる物語の勇敢なサムライとしての姿しか知らない。戦っていない時の本当の父上はどんなだったの?と尋ねても母親は答えられない。
だからこの不思議な旅は、既に喪われていた家族が異形(物語のキャラクター)の姿を借りて初めて得ることのできたつかの間の幸せな時間だった。

それにしてもこの物語は11歳の少年にとってあまりに過酷だ。
生まれてすぐに片目を祖父に奪われた。叔母たちとの戦いは容赦のない殺し合いだ。
そして、冒険のさなかで両親を再び喪い、仇である祖父を赦して共に生きていくしかない。
月の帝との決着は賛否ありそうだ。
物語でけじめをつけるという考え方は素晴らしい。村人たちの対応は無理があるような気がするが…。
死ぬ直前の祖父に「真実」を語って聞かせるという復讐もありえるのではないか。
クボはきっと最後まで嘘の物語を貫き通すのであろうが。

そういえば、クボの夢に現れた月の帝は盲目の琵琶法師だった。
語り部のモチーフはここにも表れている。月の人間は月の人間で、地上とは異なる美意識の物語を奏でていたのかもしれない。
最後の戦いで三つの武具が役に立たなかったのは、それがあくまで「三つの武具を集めた侍が月の帝と戦う」という祖父に支配された物語の産物でしかないからであろう。
クボはその物語の外に出て、語り部として人々の思い出(=何よりも強い物語)で立ち向かったから祖父の物語を破ることができたのだ。
 

メモランダム

・折り紙について。同じ正方形の紙なのに鳥にも武士にも蜘蛛にもなる。扱い方さえ熟知していればどんな形も表現できる。言葉と同じだ。
・闇の姉妹は、雪女モチーフだそうだけど、和風な意匠と西洋の魔女をうまく重ねている気がする。
・実物の人形を動かしているところを映したエンドロールは衝撃だった。CGとの兼ね合いも含めて、あれこそまさに特撮だと思った。

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