アイデンティティとナショナリズム

人間には否応なく認めざるを得ない暴力性というのがあるのではないか。
それは、ある種アイデンティティの維持と関わるものだと思われる。
暴力性は、他者を攻撃したり人を支配するという欲望と同質のもので、特に自己の危機において顕著に立ち現れる。


批評空間の「明治批評の諸問題」を読んでいる。
そこでは、日本語の言文一致はむしろ根本的に翻訳が起源だと書かれている。
二葉亭四迷のツルゲーネフ翻訳や漱石の翻訳的言文一致的な文章が起源だというのだ。

言文一致とナショナリズムは大きな補完関係にある。

ナショナリズムについて書かれた著作には、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』がある。
そこによれば、ナショナリズムが起因する近代国家〈ネーション〉は、成員が「共同幻想」を共有することによって成立するとされている。
アンダーソンは近代国家〈ネーション〉成立の要因を出版資本主義の発展に求め、新聞が〈ネーション〉の公用語の普及に大きな役割を果たし、世俗語の言文一致をあまねく至らしめるとともに「想像の共同体」の形成に大きく寄与したとする。

翻って日本の言文一致の起源を考えると、言文一致の翻訳起源を否定するような日本ナショナリズムがあれば、それは翻訳が起源の言文一致により生まれたナショナリズムによるという現象が起こるということになる。
これは奇妙なパラドックスではある。


ナショナリズムというものが求めるのは、ミクロコスモスたる〈私〉とマクロコスモスたるネーション・ステート〈国家〉の合一で、それはウパニシャッドのアートマンとブラフマンの梵我一如や、プラトンの一者合一と同じものであろう。
あるいは、ヘーゲル=キリスト教的な弁証法による神の国への救済。
つまり、救済だ。


ナショナリズムについて別の見方をすれば、近世以降、宗教国家から世俗国家へと権力による支配形態が変わる時に正当性として〈宗教〉から置き換えられたものが〈ナショナリズム〉の起源だろう。
そして、その後、正当性となるものは国家の論理〈ナショナリズム〉から資本の論理〈資本主義〉へと移行した。

19世紀後半から20世紀にかけて、上記の動きが行き過ぎた結果をもたらす。
20世紀は、それへの対抗としてソビエト型社会主義〈共産主義〉・ファシズム〈国家社会主義〉・ケインズ主義〈修正資本主義(国家資本主義)〉が台頭した。
そして、それぞれが20世紀の内に自壊した。

1990年代以降は、純粋資本主義の独壇場であった。
それは情報技術と交通技術の発展によりグローバル化を果たした。
あたかも国家や宗教は死滅してゆくように思われた。
しかし、グローバル化はむしろ紛争など民族同士の対立をもたらした。
そして、21世紀は宗教国家と資本主義国家との対立から始まった。

20世紀は、社会主義-国家 対 資本主義-国家のイデオロギーの対立があった。
21世紀は、イスラム-国家 対 キリスト教-資本主義-国家との対立から始まった。
あるいは、この時、宗教-資本-国家の結びつきが再接続されたと言われるのではないだろうか。

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CoMA
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シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

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