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哲学 – 賭け – 愛するということ

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
哲学 – 賭け – 愛するということ Posted on 2018年3月3日Leave a comment
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

パスカルは神の実在に賭け、アインシュタインは神はサイコロを振らないと言い、カエサルは賽は投げられたと行動し、ハイデガーやサルトルは企ての中に身を投じることをエンドースした。

哲学的な認識と実践のあいだには決定的な亀裂があって、それらは二元論的に制御すべきで一元論的に統合することは出来ない。
しかし、認識と実践のあいだにある飛躍、死を覚悟した跳躍というのは?

それは、まさに賭けというものなのではないだろうか。

賭けは、人間にとって強烈で不思議な魔力を持っている。ギャンブラーであれば、赤のカードが5回続いた次には黒が来るのではないかと流れを感じ取ってしまうはずだ。
奇妙な話ではある。確率的にいえば、これからの出来事とこれまでの出来事には因果関係はない。しかし、人はそこに流れを見出してしまう。あたかも、ヒューム的な違和感というか、有らぬものをあたかも有るかのように感じるのだ。

ある意味では、人生自体、賭けと言えなくもない。もちろん、僕らはディーラーではないからほとんどの場合には、はじめから負け戦だけれど。

他者を愛するということも賭けである。
僕らに、彼女らの気持ちは解りえない。応えてくれるだろうか?あるいは裏切らないだろうか?
無償の愛ならどんな愛でも良いだろう。しかし、もし相手に求めるところがあるなら?

サルトルの言った、投企=アンガジェは、エンゲージ(リング)=婚約=愛するということと同じ語源である。
愛することは自らを投げ入れること、それは賭けと言わざるを得ない。

とはいえ、賭けというものは、状況把握と確率のコントロールと可能性への前進であり、それは主体性の問題であるといえる。
それはある意味では、コミットする機会を逃さぬことでもあるが、他方で良くないゲームは続けずにすぐに降りなければならない。

つまるところ、賭けで最も下手なやり方は、ロマン主義であることと冒険主義であることだ。
まずは、心を落ち着けて、クールにゲームを楽しむことだ。そのうちに流れも変わる。あるいは、チャンスが巡ってくるかもしれない。

君のゲームにボーナス・ライトが灯ることを願って。
Have a nice play !!

シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

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