この作品は「私小説」ならぬ「私映画」だ。スピルバーグとハリデーの、大きな大きな「私」の物語だ。
VRが文字通りもう一つの現実と化した未来でありながら、この世界を彩るのは特定の年代の特定のカルチャーばかり。
オアシスの世界は言わば一冊の自伝で、それを読み解くプレイヤーは、この『レディ・プレイヤー1』を読み解こうとする観客と重なる。丹念に読み、行間に隠されたヒントを拾う。主人公のハリデーオタっぷりはテクストを精読する研究者のよう。
この映画を観て感じるのは、小さく、狭い方向に向かう力が大きなものを生み出しているということ。
世界と上手く繋がれなかったオタク少年がもう一つの世界を創造し、作り手の私的な記憶が多くの観客の記憶と結びつく。
「私」という小さな人称にとてつもない広さがある。
「私」への埋没こそが世界を創造し、つながりをもたらすということ。
あるいは、オアシスは仮想現実というよりも、むしろ「もう一つの」現実と呼んだ方がしっくりくる。
あちらも現実、だがこちらも現実。どちらか片方が本物なのではなく。
それは、ある意味では世界の多元的存在構造を示すこと、僕らが「いまここ」で見ているのはひとつのゲシュタルトひとつの現実に過ぎないと言うことを明らかにするものでもある。
ひとつのゲシュタルトを構成するものこそが現実なのだ。
映像について特筆すれば、CGはあくまで手段の一つで、それを使ってどう見せるかということこそが表現なんだということがよくわかった。
レースの場面である裏技を使った主人公の視点からの世界の見え方が、ちょっと信じられないくらい気持ち良かった。
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