Urban Liberal Arts & Post-Truth Stories for the People

草稿ノート 評論『サリンジャー的、サルトル的ー現代日本の文学精神』

本稿では、20世紀の米文学界を代表する作家J.D.サリンジャーとフランスの哲学者・思想家で作家のジャン=ポール・サルトルの作品・作家および日本における受容と影響を比較することを通して浮かび上がってくる日本文学の思想・精神史を読みときたい。


Ⅰ. サリンジャー的、サルトル的
 〈サルトルの倫理、サリンジャーの倫理〉

Ⅱ. サルトル的ー超越へと駆動する力
  (三島由紀夫、大江健三郎、吉本隆明、柄谷行人)
 〈三島由紀夫の場合(時間)ー行動の究極地点、テロリズム〉
 〈大江健三郎の場合(空間)ーサルトルとの対話〉
 〈吉本隆明(空間・時間)・柄谷行人(空間)の受容と差異〉
 〈サルトルの倫理〉

Ⅲ. サリンジャー的ー自己修復の物語
  (村上春樹、村上龍、高橋源一郎、加藤典洋)
 〈サリンジャーーイノセント&フラジャイルな作家〉
 〈三つの翻訳、三つのサリンジャー〉
  ・α.戦争神経症的なサリンジャーー『危険な年齢』〉
  ・β.分裂的なサリンジャーー『ライ麦畑でつかまえて』〉
  ・γ.解離的なサリンジャーー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』〉
 〈ポスト全共闘のサリンジャー革命からのロスト〉
  ・彼らの失語症
  ・欺瞞へのいらだち
  ・彼らの失語からの回復ー物語の構築
 〈サリンジャー的倫理〉

Ⅳ. 邂逅、対立、躓き、四散
 〈サルトルとサリンジャー〉
 1980 – 1989
 〈吉本隆明による高橋源一郎・村上春樹・村上龍評〉
 〈柄谷行人・浅田彰への批判 季刊思潮「批評は今なぜ、むずかしいか」〉
 1990 – 1999
 〈柄谷行人による村上春樹批評『終焉をめぐって』「村上春樹の「風景」」〉
 〈湾岸戦争・自衛隊派遣への抗議 〉
 〈オウム真理教事件ー村上春樹のコミットメント、サルトルのアンガージュマン〉
 〈吉本隆明が語る人間の深いところー毛沢東と麻原彰晃〉
 〈加藤典洋『敗戦後論』批判ー批評空間派〉
 2000 – 2006
 〈批評空間・NAM解散〉
 〈村上春樹『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を発表〉

Ⅴ. サリンジャーとサルトルのあいだで
 〈村上春樹の『壁と卵』〉
 〈サルトル『いま希望とは』〉

■ 参考資料
・『吉本隆明と柄谷行人』合田正人
・村上春樹『考える人』2010年夏
・その他


Ⅰ. サリンジャー的、サルトル的


J.D.サリンジャーとジャン=ポール・サルトル。いずれも20世紀に一世を風靡し世界中を席巻した小説家であり文化人である。

サリンジャーは海外文学としては、非常に広く受容されている作家である。野崎が名訳を残し、村上春樹により新訳された『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』は世界的にヒットした伝説的な小説である。思春期・青年期の若者に絶大な影響を及ぼしてきた作家・小説といえる。

他方、サルトルもかつてほどの名声は聞かないまでも、読者の価値観を塗り替えるような小説『嘔吐』や哲学書『存在と無』は文学・哲学史に燦然と輝きを残している。いわゆる全共闘以上の世代にはカリスマ的な知識人であった。

しかし、社会から隠遁したミステリアスなアメリカの作家サリンジャーと、アンガージュマンを唱え行動する哲学者として振る舞ったフランスの思想家サルトル、まったく正反対ともいうべきふたりの作家をどうして比較しようというのだろうか。
だが、これまで特別に比較されてこなかったこのふたりの作家をあえて比較することは単に筆者の個人的な思いつきや嗜好によるものではない。

あえていえば、ある時期から、サリンジャー的なるものとサルトル的なるものが交錯し対立しながら揺れ動き、日本の文学・思想の潮流を作ってきたといえる。

サリンジャーとサルトル。ふたりを補助線として、サルトル的なるものとしての三島由紀夫・大江健三郎・吉本隆明・柄谷行人、サリンジャー的なるものとして村上春樹・村上龍・加藤典洋・高橋源一郎をそれぞれみることで、1960年代以降のポストモダンな日本文学の精神史を追うことにしたい。

だが、なぜあらためてポストモダンの文学の精神史を問う必要があるのだろうか。
それはポストモダンの文学は物語がないところでいかになにを語るのかということを問い続けた半世紀という時間を持つからである。
これは現代という時代に対峙するときにアクチュアルな意味を持つ問いである。
ぼくらの生きる現在、2018年においてはポスト・トゥルースという言葉が跋扈する時代である。それは、フェイク・ニュースや歴史論争やマーケティングにおいて人々の精神が書き換えられていく時代でもある。

ぼくらの時代精神はあらためてよりどころとなる真実がないということに気付かされ畏怖している。
ポストトゥルースという言葉は、真実などないという現状から超越しようという精神が姿を現したということを表現しているといえるだろう。どこにも真実などないのだから、自分たちの信じたいことを信じ、自分たちに都合の良いことだけを語ろうとしてしまう人間の開き直りと弱さ。

そのときに、ある者は科学的・工学的なものだけを正しいものとして思考し、ある者は現実を直視するのではなくそれを超えた真実というものを発見し、スピリチュアルやナショナリズムに意味を見出し、ある者は自分自身だけが正しいという独我論に陥って他者を排斥していくであろう。

だからこそ、ぼくらはあらためて物語の終焉から、いかに物語がありうるだろうかと問い続けた半世紀の文学の精神史を問う必要があるのだ。そして、日本における
ポストモダンな文学はサルトルとサリンジャーの影響をおおいに受けて涵養された。
その精神史の中心人物が上に記した8名の作家である。

彼らにとって、何がサルトル的、何がサリンジャー的であったのか?
それは倫理である。

〈サルトルの倫理、サリンジャーの倫理〉

先に核心的なところを述べれば、サルトル的な倫理とは、根源的な問題との格闘であり、前進である。それに対し、サリンジャー的なるものの倫理は損壊した世界と私を修復しようという試みであり、癒やしというようなものである。

サルトルは不条理の中のコギトであり混沌を切り裂きながら意味を作り出すプロジェクトに全身全霊を捧げる。
哲学研究者の合田正人は、吉本隆明・柄谷行人と「全共闘」世代を比較しこう記載している。
これはサルトル的なものによる、サリンジャー的なものへの批判である。

”昨今、「分カリ易サ」のイデオロギー、新たな「ニッポン・イデオロギー」(戸坂潤[一九〇〇~一九四五])が台頭し、それが、「倫理」「エートス」「大人」といった御守言葉でさまざまに偽装された「全共闘」世代論とともに暗躍しつつあること、それと、吉本、柄谷をめぐるこの逆説的情況とは、無縁であるどころか密接に関連している。原理的問題群と格闘する者たちへの畏敬の念はやがて、誰がやってもダメじゃないかという諦観に変容し、それだけならまだしも、この停滞のうちに、原理的問題群を棚上げにする格好の口実を見出す者たちがまたしても跋扈しはじめたのだ。”
(『吉本隆明と柄谷行人』合田正人)

他方で、村上春樹は雑誌のインタビューでサルトル的なものを批判してこう言う。

”大げささな言い方をするなら、『1Q84』というのは、二〇世紀の「現代小説」、たとえばサルトル的なものに対する、僕なりの対抗テーゼと言ってもいいかもしれない。”
(村上春樹『考える人』2010年夏)

前進し分裂的なサルトルと、失語する離人的なサリンジャー。
サルトルの不条理をつらぬく視点と、いかに現実を再形成しようかとさまようサリンジャーの視線。

それは、集合論や精神分析のキーワードとも関係してくる問題である。
外部のスプリッティングがいきつく暗黒の噴出、内部が充満する開かれた集合。
あるいは超自我的な超越と井戸の底の集合的無意識。

ポストモダン文学を精神史を俯瞰するために、まずは時代の流れに沿って、サルトルの作品・作家・日本における受容を把握することからはじめたい。


Ⅱ. サルトル的ー三島由紀夫、大江健三郎、吉本隆明、柄谷行人


〈サルトルー行動する哲学者〉

サルトルならびにサルトル的な思想家とはなんであろうか。彼らは超越に取り憑かれた思想家たちである。

サルトルは絶対的な無の中に現象を視る。混沌とする無の中に、どこからか現れたそれは超越である。人は超越を掴もうとする。
超越はイマジナリーな世界を人に想起させる。それを現実として掴もうとサルトルは超越を追いかけて、行動する。

これがサルトル的な思想家の共通点である。

〈三島由紀夫の場合ー行動の究極地点、テロリズム〉
三島由紀夫の現代文学に対する後に残した影響は大きい。
ある意味で、サルトルがポストモダンのフランス現代思想家たちに残したものを、三島由紀夫も日本文学上に残したといえる。

だが、三島由紀夫はサルトルを嫌いだと公言していた。そこから話を始めよう。

もちろん、三島由紀夫のサルトルを嫌いだという言葉を額面通りに受け取ってはならない。
なぜならば、彼はその強烈なエゴにより太宰治に憧れながら彼に対して直接『私はあなたの文学が嫌いです』と言った人物であったのだから。

三島由紀夫とサルトルの共通点は明らかである。前後に颯爽と登場した行動する知識人。
三島由紀夫と対話したこともある文筆家の小阪修平は、サルトルと三島由紀夫を評してこう言う。

『三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争』

三島由紀夫はサルトルに対して、同族嫌悪を感じていたと言わざるを得ないだろう。彼が、太宰治に感じていたのと同じように。

〈大江健三郎の場合ーサルトルとの対話〉
大江健三郎は三島由紀夫とは異なり、サルトルの影響を直接に受けた。

彼はのサルトルの翻訳で名高い海老坂武らとともに、実際にサルトルと対話を行なっている。

〈吉本隆明・柄谷行人の受容と差異〉

共同体の幻想を構造的に把握、それを突き破るものとしての柄谷行人

哲学者の合田正人は著作『柄谷行人と吉本隆明』でこう語る。

かれら二人はサルトルを批判しながらも、大きな影響を受けているという。だが、かれら二人は対立をしていたことでも知られている。かれらのサルトル批判と、両者の相互の批判についても見てみよう。

かれらの試行していたもの違いはなんだったのであろうか。

吉本隆明は現象学的還元を批判している。
“「事物のあまりに異様な関係 [錯綜 ]に耐えられなくなった事物を救済するために 、この種の現象学的な還元が 、きわめて有効な遁走であるという事実 ( … … ) 」 ( 『心的現象論本論 』三〇ペ ージ ) ─

“「構造 」と 「構造化 」を現代数学の第一義的な課題とみなした遠山がこう言っているわけだが 、遠山の発言はもちろんカント ールについての否定的な発言ではまったくなかった 。事実遠山は 、集合を 「完全に限定されているものを入れている閉じた袋 」にたとえたリヒャルト ・デデキント (一八三一 ~一九一六 )に 、カント ールが 「私は集合とは底なしの深淵だと思っています 」と応じたことを紹介しながら 、 「カントールは積極的に新しい無限集合をつぎつぎとつくりだしていくことに興味をもっていた 」 ( 『数学論シリ ーズ 6数学と文化 』一二八ペ ージ )と評価している 。興味深いことに 、物理学者のニ ールス ・ボ ーア (一八八五 ~一九六二 )も来日時に 、量子力学について 「底なしの深淵 」 ( b o t t o m l e s s a b y s s )と言っていた 。吉本はまさにこの深淵を覗き込んだのだろう 。いや 、柄谷の 「内省 」もそうだったのだ。”

“カント ールは 「構造化 」 「建築 」そのものが 「脱構造化 」 「解体 」であることを示した 。 「ディコンストラクション 」 (脱構築 )の淵源の一つがここにある 。たとえば柄谷の師のひとりであるポ ール ・ド ・マン (一九一九 ~一九八三 )は 、 「テクストそのものがディコンストラクションである 」といった意味のことを言っているのだが ( 『読むことのアレゴリ ー 』一九七九年 ) 、柄谷自身の仕事が 、遠山の描いたプログラムと決して無縁でなかったことは 、 『隠喩としての建築 』の次の引用からも明らかだろう 。”

“柄谷行人に対して、思想家の東浩紀は指摘する。「柄谷の問題意識はそのまま 、 『ひとは何故超越論的問題に取り憑かれるのか 』という問いに言い換えることができる 」”

“集合の概念と 、カントの意味での純粋悟性のカテゴリ ーとの間には密接な関係があることに留意されたい 。すなわち 、両者ともその機能は 「総合 」であり 、つまり統一性を多様性から生成させること (例えば 、カントにおいては 、一つの対象をその多様な諸側面 〈 a s p e c t s 〉から生成させること )なのである 。 (田中一之編 『ゲ ーデルと 2 0世紀の論理学集合論とプラトニズム 』二八六 ~二八七ペ ージ )”

“「情熱と方法 」 ─ ─カント ールの集合論は 、 「単一な論理的階程に依存する思考方法 」 (同 「詩と科学との問題 」七ペ ージ )の不可能性を吉本に知らしめたのだ 。たとえば 、粒子と波動が量子力学において共存するように 、吉本は 、きわめて微妙で 「曖昧 」 [両義的 ]な境界線をもつ 「情熱と方法 」の方法それ自体のなかに 、アルチュ ール ・ランボ ー (一八五四 ~一八九一 )とマルクスという 「逆立 」せるもの ─ ─ 「相反性 」 ─ ─を共存させた 。マルクスは 「世界を変え 」 、ランボ ーは 「生活 [感性 :引用者付記 ]を変える 」というアンドレ ・ブルトン (一八九六 ~一九六六 )の言葉 、そしてまた 、ブレ ーズ ・パスカル (一六二三 ~一六六二 )のいう 「幾何学的精神 」と 「繊細の精神 」との対立をきっと踏まえていたのだろう 。”

“「わかちがたさ 」と呼ばれる緊張せる錯綜 、結節 、屈折 、逆立ち 、乖離の 「構造 」 ─ ─それこそが吉本が最も重視しているものなのだ 。この 「構造 」は 「構造の限界 ・境界の構造 」にほかならず 、私自身 、 「限界 ・境界 」の不思議について 、この十数年あれこれ考えをめぐらせてきた 。そのためにこの点がことさら目につくということはあるだろうが 、吉本ほど 「限界 ・境界 」の非線形的複雑さをいかに表現するかに腐心した日本の思想家は他に例を見ないし 、また 、その努力によって 、現代思想のいくつかの重要な潮流と彼は結びつくことにもなる 。”

〈サルトルの倫理〉

「飢えた子どもに物語が有効か」


Ⅲ. サリンジャー的ー村上春樹、村上龍、高橋源一郎、加藤典洋


『ライ麦畑でつかまえて』 伝説的であり、いわくつきの本でもある。

〈三つの翻訳、三つのサリンジャー〉

サリンジャーは日本ではどのように受容され、村上春樹、加藤典洋、高橋源一郎にどのように影響を与えたのであろうか。また、なぜ村上春樹はサリンジャーを翻訳し直したのだろうか? そこから考えていこう。

これまでに日本で出された『The Catcher in the Rye』には複数の翻訳が存在する。
それぞれの翻訳を見ると、時代の空気をよく反映しているのがよく分かる。

時代の空気。よく言われることだが、精神的な病というものは、時代とともにその現れが変容する。
70年代頃までは対人恐怖や神経症が多く、80年代は境界例の時代であり、90年代以後は解離性障害が増加したという。
サリンジャーは無垢であるとともに、病的な小説家でもある。
翻訳と時代の空気、病からサリンジャー受容を見ていこう。

 ・1951年  J. D. Salinger『The Catcher in the Rye』(原著)
 ・1952年  橋本福夫 訳  『危険な年齢』
 ・1964年  野崎孝  訳  『ライ麦畑でつかまえて』(1984年 改訳)
 ・2003年  村上春樹 訳  『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

〈α.戦争神経症的なサリンジャーー『危険な年齢』〉

まず、はじめに、原著が刊行してすぐの1952年に訳した橋本福夫訳は『The Catcher in the Rye』を戦後文学として受容した。
以下、論文を引用するが、『危険な年齢』というタイトルは”「戦後のアメリカの若い人達の持つ空虚感を表明した言葉」を日本のコンテクストに受容可能なように訳した”というものであった。つまり、いわゆるロスト・ジェネレーションの文学として受容された。

” 日本でいち早く The Catcher in the Rye を翻訳したのは、橋本福夫である。翻訳に先立つ書評(橋本 1952, 52)で、「わたくしはこれはいわゆる war novel ではないが戦争の生んだ小説、après guerre(戦後)小説の一つだと思う」と述べている。”
(論文『村上春樹の新訳と三人のサリンジャー(林 圭介)』)

石原慎太郎が『太陽の季節』を描き、木下恵介が『日本の悲劇』を撮った時代である。

〈β.分裂的なサリンジャーー『ライ麦畑でつかまえて』〉

名訳と名高い野崎孝による翻訳が描かれたのは、1964年のことであった、その翻訳を1984年に改訳する。
1964年に翻訳した野崎孝は社会の下層に位置する主人公が、大人に反抗する小説という「ピカレスク小説」としてこの作品を翻訳したと書いている。今でいえば、村上龍の小説と近いフォーマットとでもいえる。
そして、1984年の改訳ではそのフォーマットのパターンを強化したという。

” 一方、1964 年の初訳における「解説」で、野崎(サリンジャー 1964, 299-301)は「子供の夢と大人の現実の衝突」が「作品の基本的パターン」だと指摘し、「彼は子供の世 界にありながら、大人の世界に片足突っ込んだ不安定な姿勢で立っている」と主人公 のホールデンについて論じている。野崎がこのテクストに見出すのは、「見なれた場面 を、常とは変わった、興味をひく視点」が主人公によって描かれる「ピカレスク小説」 という枠組みである。この枠組みは 1984 年の改訳で強化される。”
(論文『村上春樹の新訳と三人のサリンジャー(林 圭介)』)

精神科医の斎藤環は『ライ麦畑でつかまえて』を “世界でもっとも有名なボーダーライン文学” “ボーダラインの標本みたいな小説” と評し、分裂的な文学としてとらえているが、その斎藤環がより身近に感じているのが、この野崎孝の翻訳である。

分裂とは、不安などから自己の精神を守るための防衛機制のひとつである。ここで分裂を定義するなら、対象の全体を受け入れるのではなく、白黒をつけて切断し、認識や判断をすること、としよう。
「好き・嫌い」/「綺麗・汚い」/「正義・悪」/「敵・味方」/「愛・憎悪」/「粋・野暮」こういった二項対立での思考形態が典型的な分裂的な思考である。

この小説の主人公、コーンフィールドが世間や他者を批判しながら、しかし、無垢なものを求める姿勢。物事の本質を白黒ついてはっきり突くという姿勢はまさしく分裂的なものといえよう。分裂的な傾向というのは、ある種の批評性のようにも思えるが、この思考法が病理と呼ばれるようになった段階のひとつが境界例(ボーダーライン)である。

だが、名訳といわれる野崎孝の『ライ麦畑でつかまえて』であるが、村上春樹・高橋源一郎・加藤典洋によるサリンジャー受容はかならずしも〈分裂的なサリンジャー〉ではないようなのだ。彼らの受容は後述する。

〈γ.解離的なサリンジャーー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』〉

そして、村上春樹は解離的なサリンジャーを描いた。

精神科医の斎藤環は村上春樹を解離的あると評価する。
” 私の村上評価は、「ねじまき鳥クロニクル」を境として、ほとんど180度近く変化した。(略)私にとって重要なのは、この作品を嚆矢として、村上作品の「解離」ぶりは、いっそう洗練されていったという点である。(略)解離の導入がなぜ必要であったか。それは私がかつて述べたような、境界例的「分裂」から多重人格的「解離」へ、という、時代精神の変化を反映した流れであった(p115)”

斎藤環のこの発言の後に発表された村上春樹によるサリンジャー翻訳はこれまでの神経症・分裂的であった物語を解離的な翻訳に変容させた。しかし、それだけでなく、村上春樹の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、これまでの翻訳よりも、やさしく、癒やしを感じさせる文章が志向されていた。ある種、それはカウンセリングを感じさせる表現であった。
それに対して、世間からは「これは翻訳ではない。翻案だ」という批判の声もあがった。だが、その批判は正しくない。村上春樹の飛躍した翻訳には、彼自身の転回、彼自身の飛躍が試行されていた。しかし、その飛躍の前には、躓きが必要であった。

〈ポスト全共闘のサリンジャー革命からのロスト〉

ここで、サリンジャー的作家の4人が登場する以前に戻り、かれらの世代について一度確認しておこう。

東大安田講堂事件が終局、70年安保が自動延長すると、全共闘的な学生運動は一気に退潮した。
物語の終焉、革命の終わり、宴の後。そして三島由紀夫は自決する。
1970年代はさめざめとした殺伐とした風景を思わせる。

1970年「よど号ハイジャック事件」、1971-1972年「連合赤軍事件」。文化面では、1972年『木枯らし紋次郎』、1973年『氷の世界』、1974年『傷だらけの天使』、1975年『僕たちの失敗』、1976年『いちご白書をもう一度』。

文筆家の小阪修平はその時代の空気を『思想としての全共闘』でこう語る。”同世代の一番優秀な奴は滅んだか、半ば廃人になった” 小阪修平もなかば離人症のようになったという。誰もが、語る言葉を失った。

イーグルスによる『ホテル・カルフォルニア』が歌われた次の年、「ダッカ日航機ハイジャック事件」の翌年、1978年に村上春樹は処女作『風の歌を聴け』の執筆を開始する。高橋源一郎は『さようなら、ギャングたち』を1980年に書く。
彼らは、その時までことばを失っていた。

彼らは、ロスト・ジェネレーションであった。そして、そんな彼らがサリンジャーを読んだのだ。1984年以前の、より分裂的に改訳される前の野崎孝の翻訳、あるいは橋本福夫訳によって。革命の終わりに、喪失感と共に、まるで戦後のような心情で。

加藤典洋は『敗戦後論』でこう書いている。彼はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を“戦争からの生還者の苦しみ”だと表現する。そこには、彼の革命の失敗した後に生き続ける自分の苦悩が重ねられていただろう。
“太宰の「トカトントン」はわたしにJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を思いださせる。一見したところ関わりをもちそうにない二作だが、全く無縁だというのでもない。簡単にいえば『ライ麦畑でつかまえて』は、あの『お伽草紙』がそうであるような戦争小説である。そこに描かれていることの一つは、「トカトントン」が描くのと違わない、戦争からの生還者の苦しみなのである。”
(加藤典洋『敗戦後論 』)

〈彼らの失語症、欺瞞へのいらだち〉

学生運動と逮捕・拘置所での勾留から失語症を経験したことのある高橋源一郎は小説『優雅で感傷的な日本野球』でこう書いている。
そこからは、どうしても拭い去ることのできない不快感のようなものが見て取れる。

“驚くべきことに、生徒たちの何人かは『危険な年齢』というタイトルになっていたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の古い訳本を持っていました、また何人かは「抹香街」という漢字を即座に書き取ることができました、また何人かは真善美社から出版された本を持っていました、どうしたんですか? 気分でも悪いんですか?”

そして、村上春樹もまた失語した。
デビュー作『風の歌を聴け』にはこんな文章がある。

“それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口も聞けないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える…そんな気がした。
それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートの真ん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったも のを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの…僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。”

加藤典洋は『敗戦後論』で現実をアクチュアルに捉えることのない、帰還兵の欺瞞へのいらだちをこう言う。
“彼の窮状とは、彼がどうにもいわゆる世の中のインチキに我慢できず、それに従うなら死んだほうがましだ、と思っているということだ。”
(加藤典洋.敗戦後論(ちくま文庫))

村上春樹もまた『ノルウェイの森』で欺瞞へのいらだちを明らかにする。
” ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。(略)これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊るしあげたのだ。(略)そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。”

〈彼らの失語からの回復ー物語の構築〉

村上春樹、村上龍、加藤典洋、高橋源一郎をひとりひとり見てみよう。
〈村上龍 ー『限りなく透明に近いブルー』〉
〈村上春樹ー『風の歌を聴け』〉
〈加藤典洋ー『敗戦後論』〉
〈高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』〉

〈サリンジャー的倫理〉
「物語」


Ⅳ. 邂逅、対立、躓き


〈サルトルとサリンジャー〉

言語にとって美とは何か、ひとりの個体 位置づけ 吉本隆明

戦争が個体にとってどのような影響を及ぼすかとちうこと

【1980 – 1989】

1980年台、ポストモダンが一気に受容された時代に、颯爽とあらわれたサリンジャー的な作家たちは一世を風靡する。
これに対して称賛を送るサルトル的な批評家がいた。他方で、 サリンジャー的な作家を批判する批評家も出現する。

彼らは、時に出会い、 認め合い、対立し、時にはすれ違った。
流れはわかれ、時にはヘゲモニー争いのように三つ巴・四つ巴の論争となる。
あらためて、サルトル的/サリンジャー的な彼ら8人を分類しておくならば以下のように分けられるだろう。

① サルトル的(右翼)           :三島由紀夫
② サルトル的(岩波朝日文化人) :大江健三郎
③ サルトル的(批評空間)    :柄谷行人
④ サルトル的(大衆の原像)   :吉本隆明
⑤ サリンジャー的 (批評空間派):村上龍
⑥ サリンジャー的 (吉本派)  :加藤典洋、高橋源一郎
⑦ サリンジャー的 (英米文学) :村上春樹

以下、1980年代以降の彼らの邂逅と対立を見ていこう。

〈吉本隆明による高橋源一郎・村上春樹・村上龍評ー吉本隆明の転向〉

吉本隆明は転向した。

1990年代を通して、サリンジャー的、サルトル的な彼らはさらに交錯し、対立し、あるいは自壊した。

その前哨戦は、1988年の加藤典洋/高橋源一郎/竹田青嗣の鼎談「批評は今なぜ、むずかしいか」からはじまった。

〈1988年 :批評空間・加藤典洋の対立 季刊思潮「批評は今なぜ、むずかしいか」〉

対して、柄谷行人率いる批評空間の編集者となる浅田彰は猛烈な反論を行った。
いわく、加藤典洋/高橋源一郎/竹田青嗣らの批評は外部に開いていない。閉じている。
共同体の内部に閉じこもっているというものであった。

「季刊思潮「昭和批評の諸問題1965−1989」」

【1990 – 1999】

〈1990年 : 柄谷行人による村上春樹批評『終焉をめぐって』「村上春樹の「風景」」〉

1990年、柄谷行人は著作『終焉をめぐって』を発表する。
その第一部は「大江健三郎のアレゴリー」と「村上春樹の「風景」」という批評であり柄谷行人による、大江健三郎と、村上春樹への批判が描かれている。

これに対して、村上春樹は村上春樹は沈黙を貫いていた。
それは、1986年-1995年まで、海外で活動をしていたところによるものも大きい。
だが、1998年に出版された『夜のくもざる』に「柄谷行人」というタイトルの柄谷行人を批判する戯作的な文章を入れる予定だったと本人が語っているところをみても、これらの評論から受けた影響は少なくないだろうと思われる。(村上春樹『雑文集』に収録)

〈1991年 : 湾岸戦争・自衛隊派遣への抗議 〉

1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫、高橋源一郎らは『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。

この件は大きな反応を呼ばなかった。だが、これは後に加藤典洋とのあいだで大きな論争に発展する。

〈1994年 : 大江健三郎 ノーベル文学賞受賞〉

1994年、ノーベル文学賞を受賞した。
川端康成以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者となる。
サルトルのように辞退することはなかった。

受賞理由として、以下が語られている。
「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。その世界では生命と神話が凝縮されて、現代の人間の窮状を描く摩訶不思議な情景が形作られている (who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today )」

〈1995年 –  : オウム真理教事件ー村上春樹のコミットメント、サルトルのアンガージュマン〉

1995年、阪神・淡路大震災と同じ年に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。
地下鉄サリン事件は、死亡者13人、負傷者 約6,300人の大規模テロ事件である。

オウム真理教には、ある種のニューエイジ運動(New Age movement / NAM)の側面があった。
それは、サリンジャーが後期に辿りついた神秘主義や東洋思想、輪廻的なものをベースにした新宗教であったことだ。
ある意味で、オウム真理教は政治性から離れて世捨て人になったサリンジャー的な人びとの集団であった。

この事件に村上春樹は衝撃を受ける。そして、村上春樹は海外から帰国しノンフィクションの仕事をはじめる。
しかも、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー『アンダーグラウンド』と、オウム真理教の信者に対するインタビュー『約束された場所で―underground 2』を両面で行ったのである。
これは不思議な方法である。
だが、アンダーグラウンドの意味するところを考えれば意図は明確であった。アンダーグラウンドは、直訳すれば「地下」を意味するが、「見えないもの、影の存在」を意味する言葉でもある。村上春樹は『アンダーグラウンド』では地下鉄事件の被害者を描き、『約束された場所で―underground 2』ではオウム真理教信者の心の深いところを描こうとしたのである。

そして、この経験から、村上春樹は加害者であるオウム真理教信者からむしろ示唆を受けることになる。
それは、人が物語を持たないことの危険性である。

 オウム真理教に帰依した何人かの人々にインタビューしたとき、僕は彼ら全員にひとつの共通の質問をした。「あなたは思春期に小説を熱心に読みましたか?」答えはだいたい決まっていた。ノーだ。彼らのほとんどは小説に対して興味を持たなかったし、違和感さえ抱いているようだった。人によっては哲学や宗教に深い興味を持っており、そのような種類の本を熱心に読んでいた。アニメーションにのめり込んでいるものも多かった。言い換えれば、彼らの心は主に形而上的思考と視覚的虚構とのあいだを行ったりきたりしていたということになるかもしれない(形而上的思考の視覚的虚構化、あるいはその逆)。
 彼らは物語というものの成り立ち方を十分に理解していなかったかもしれない。ご存知のように、いくつもの異なった物語を通過してきた人間には、フィクションと実際の現実とのあいだに引かれている一線を、自然に見つけだすことができる。
(中略)
つまりフィクションが本来的に発揮する作用に対する免疫性を身につけていなかったと言っていいかもしれない。
(村上春樹『村上春樹雑文集』「東京の地下のブラック・マジック」)

これにより、村上春樹は人びとに物語を語ることを志向するようになる。
物事を語ることによるコミットメントである。それは、サルトルが「文学は何ができるか」で語った「飢えて死ぬ子供を前にしては『嘔吐』は無力である」「作家たるものは、今日飢えている二十億の人間の側に立たねばならず、そのためには、文学を一時放棄することも止むを得ない」というテーゼとは相反するものであった。
はじめに出した彼の「『1Q84』というのは、二〇世紀の「現代小説」、たとえばサルトル的なものに対する、僕なりの対抗テーゼと言ってもいいかもしれない」というのは、まさにこの意味である。

〈1995年 –  : 吉本隆明が語る人間の深いところー毛沢東と麻原彰晃〉

他方、サルトル的な人物の中にもこの事件に関心を持つ人間がいた。吉本隆明である。
彼は、対話集『夜と女と毛沢東』において、毛沢東の深い闇の部分と麻原彰晃の闇の深さを共通のものとして語っている。

吉本隆明/辺見庸 『夜と女と毛沢東』(文春文庫)2000年

〈1997年 : 加藤典洋『敗戦後論』批判ー批評空間派〉

内田樹「戦争論の構造」(『論集』第46巻第3号、2000年3月、神戸女学院大学研究所に収録予定)(内田樹のホームページで読める。http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/)この論文で内田は高橋をサルトル – カミュ論争における「正しすぎる」サルトルに見立てている。興味深い指摘である。

批評空間出身の東浩紀は加藤典洋と批評空間派との対立を『郵便的な不安たち』の中で、こう称している。

【2000 – 2006】

〈2002年 : 批評空間、2003年 : NAM解散〉

2000年、柄谷行人は資本と国家への対抗として、政治運動 New Associationist Movement (NAM)を立ち上げる。
それは、あらたな希望を切り開こうとする柄谷行人の行動であった。
あるいは、盾の会を率いた三島由紀夫や、毛沢東主義の学生を支援したサルトルのように。

サルトルは分裂的な作家であった。いや、彼は分裂的であったからこそ、明晰であったといって良い。
解離は内部をスプリッティングさせるが、分裂的な人物は他者をスプリッティングさせる。
他者を語った柄谷行人もまた明晰であった。そして、柄谷から大きな影響を受けた彼の子犬たちもまた明晰であった。
NAMは2003年に解散する。

そして、批評空間社も2002年に編集長 内藤裕治の急死により解散した。

だが、それ以降も柄谷行人は超越を切り開こうと前進し続けている。
「新たな交換様式にもとづくグローバル・コミュニティ(アソシエーション)」に向けて「その実現は容易ではないが、けっして絶望的ではありません。少なくとも、その道筋だけははっきりしているからです」と語っている。
(柄谷行人『世界共和国へ』(2006年))

〈2004年 : 九条の会 結成〉
2004年、大江健三郎は中心人物のひとりとして、九条の会を結成した。
呼びかけ人は、オールド左翼の以下の9人であった。
井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子。
彼らは60年台から、大きく転向せずに戦い続けている。時代の流れに逆らいながらも戦い続けたサルトルのように。

〈2006年 :村上春樹『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を発表〉

2006年、村上春樹は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を発表した。


Ⅴ. サリンジャーとサルトルのあいだで


批評空間の崩壊後、日本の思想のシーンはアカデミズム・ジャーナリズム・サブカルチャー・政治経済へと四散し、曖昧になった。批評は、ストリートの思想と呼ばれるマルチチュードとゼロ年代批評といわれる傾向に別れていった。
ある意味では、サルトル的な〈行動〉とサリンジャー的な〈引きこもり〉が極限まで突き詰められたともいえるだろう。
サウンド・デモ〈祝祭的革命〉とセカイ系〈失語的喪失的世界〉と考えればサルトル的なものとサリンジャー的なものであったことがよく分かる。
だが、アクチュアルな意味での一般的な現実からは乖離し続けた。そして、世間への影響力は低下した。

一方で、村上春樹が新刊を出版すると大騒ぎとなった。だが、そのあまりの人気の高さから村上春樹の物語は商品として流通し、日本国内では文学として批評されずらい状況が続いた。

そして、サリンジャーとサルトルは、また交錯しはじめている。

2011年、3月11日 東日本大震災、福島第一原発事故が発生。
同年、それまで『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む』、『「物質」の蜂起をめざして: レーニン、“力”の思想』レーニン研究など理論的な仕事をしていた批評家の白井聡は、加藤典洋の『敗戦後論』の影響が見られる『永続敗戦論』を出版した。

2012年、批評家の吉本隆明が他界した。
吉本隆明の講演は、ほぼ日刊イトイ新聞の糸井重里がアーカイブスし、無料で公開している。
ぼくらはいつでも彼の思想に触れることができる。
http://www.1101.com/yoshimoto_voice/

2013年、加藤転洋と高橋源一郎は対談『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』を出版。
同年、「批評空間」出身の東浩紀は福島第一原発観光地化計画を主催、2015年には批評史「ゲンロン」を創刊する。

2015年、高橋源一郎はSEALDsの学生と対話を行い『民主主義ってなんだ?』を「自由と民主主義のための学生緊急行動主宰メンバーたちとの対談」として出版した。
同年、村上春樹は『職業としての小説家』を発表、自身がかつてノンセクト・ラジカルであったこと、イスラエル賞受賞式前の苦悩を明かしている。

2017年、村上春樹は現在の文壇の中心人物ともいえる川上未映子との対談『みみずくは黄昏に飛びたつ』を発表した。


さて、サリンジャーとサルトルとの違いは、その倫理であるとはじめに告げた。
それぞれの倫理がどんなものであるか、最後に整理しよう。

〈村上春樹の『壁と卵』〉

2009年、イスラエル賞受賞式での村上春樹発言は大きく報道された。
これをオウム事件後以降の村上春樹のデタッチメントからコミットメントだと評価したしともいた。
一方で、あのような発言には意味がない、受賞を断るべきだという意見もあった。
だが、そうではない。彼の試みは単なるアイロニカルな抵抗ではないということを理解しなければならない。
オウム事件語の『アンダーグラウンド』/『アンダーグラウンド』で彼は転回し、サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の翻訳で彼は飛躍し物語をつくり、そこから離れることなく跳躍をして『壁と卵』を語ったといわなければならないではないか。

彼は語る。
「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

以下引用しよう。

” 「それでも私は最終的に熟慮の末、ここに来ることを決意しました。気持ちが固まった理由の一つは、あまりに多くの人が止めたほうがいいと私に忠告したからです。他の多くの小説家たちと同じように、私もまたやりなさいといわれたことのちょうど反対のことがしたくなるのです。私は遠く距離を保っていることよりも、ここに来ることを選びました。自分の眼で見ることを選びました。」

そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。

「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」

http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php ”

ここで思い出すべきであるのは、まさに『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の一説である。

サリンジャーの倫理は憐れみである。か弱きイノセントなものたちを包み込むように守らなければならない。
サリンジャーの以下の文章は、まさに村上春樹のイスラエル文学賞でのスピーチと響き合うものである。

"「僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。
一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。
でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」"

〈サルトル『いま希望とは』〉

対して、すでに明らかであるが、サルトルの倫理は希望であり、それは行動である。
少し長くなるが、サルトルの言葉を引用する。

"企てられた行動のきわめて重要な特徴の一つは、さきほど言ったように希望だということ。そして希望という言葉の意味するところは、行動を企てれば必ず行動の実現を期待する、ということだ。(略)ということは、行動が必ず目的を実現するに違いない、ということではなく、未来のものとして立てられた目的の実現の中に、行動が姿を現すに違いない、ということだ。しかも、希望自体の中に、一種の必然性がある。いま現在、挫折の観念はわたしの内で深い根拠を持っていない。"

そしてサルトルは続ける。

"とにかく、世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望さ。だがまさしくね、わたしはこれに抵抗し、自分ではわかってるのだが、希望の中で死んでいくだろう。ただ、この希望、これをつくり出さなければね。
説明を試みる必要があるな。なぜ今日の世界、恐るべき世界が歴史の長い発展の一契機にすぎないのかを、希望が常に、革命と蜂起の支配的な力の一つであったということを。それから、自分の未来観としてどういうふうにわたしがまだ希望を感じているのかを。"


これもまた村上春樹に新訳された小説であるが、レイモンド・チャンドラーが生み出したハードボイルド小説の主人公フィリップ・マーロウは言った。

"強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格が無い"

ぼくらは、サリンジャー的、サルトル的であるだろうか。


【P.S.】
最後に、個人的な想い出をひとつ。
いまから10年ばかり前のこと、大学の卒業式に東京都知事であった石原慎太郎が来賓として登壇した。
彼は、ぼくらに、こう言った。

「サルトルのようにアンガジェしなさい」

投稿者プロフィール

CoMA
CoMA
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

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