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文学とは何か?純文学批判としての小説『美しい顔』

以下、現実から乖離したメタ的な深読みであること、あるいは既存の「純文学」を批判し、「純文学」の枠を無理やり「ブログ記事」などの領域まで拡張しようとする立場での考えだとご指摘を受けました。

大変、申し訳ございません。ここにお詫びさせていただきます。


『美しい顔』という作品が話題にされ、大きく波紋を広げている。
この作品は群像新人賞に輝き賞賛され、新聞の書評でも好意的に取り上げられ、第159回の芥川賞の候補にもノミネートされた作品である。

だが、この作品の引用方法に慣習上問題となる点があったこと、実際に被災地に赴かずに震災を舞台にした小説を書いたという倫理的なところが、議論されているのだ。

実際に本作を読んでみると、かならずしも被災地をモティーフにする必然性のなかったテーマの作品であるようにも思えるし、モティーフの部分をこういう形で引用する必要もなかったという風に思わなくもない。

少なくとも、被災者の立場を考えたならば、倫理的な問題があることは間違いないように思われる。それは反省されなければならないであろう。

しかし、であるならば、なぜ、あえて、このような作品としてこの小説を書いたのだろうか。

むしろ、ぼくらはこの作品を「あえて」このモティーフを利用して、このような引用をしたということに注目しなければならない。
本作の力はこの「あえて」という部分にあるからだ。

逆説的に、あえて純文学的に震災という社会性のあるモティーフを利用して作品を描くこと、あえて被災地をポルノのように消費するメディアを批判すること、それらがメタ的・自己言及的に物語るというのがこの小説を強烈な印象を残すものとしている。

そもそも、この小説は「純文学」小説ではない。
この作品は「純文学批判」小説なのだ。

この作品が問うのは、結局のところ文学の社会的な意味とは何かということである。
むろん、それは意図されたものではないかもしれない。

倫理的にとわれるべきところであるが、この作品は、あえて現地に赴かずにノンフィクション作品の表現を参考にして構築されている。
また、この作品は現在、無償でインターネットで公開されダウンロードされている。
それはまるでヒップホップにおけるサンプリング・コラージュ・配布を思わせる。

たしかに、この小説はあたかも純文学であるようなテーマ・モティーフ・スタイルで描かれているが、その手法はいわゆる純文学的なものではないのだ。

それと同時に、仮に現地を視察したからといって、震災の当事者でない人間の書く文章に意義はあるのかという問いかけがある。それは作中のカメラマンのような行為ではないのかと。

かりに、震災をモティーフにしたのではなく、都会のナイトライフをモティーフに既存のルポを参考・引用し構築された小説であれば今回のような形での批判にはならなかったのではないか。その意味では、今回の問題は、震災による被災者・関係者への人間としての礼儀をもった振る舞いの問題、震災や戦争など特殊なテーマを被害者・被災地をモティーフにして作品やフィクションを創作することは許されるのかという問題に収れんされていく。

他方、意識されたものか否かにかかわらず、
文学の存在意義への問いは、新人賞受賞のことばにも現れている。

小説を書くことは罪深いことだと思っています。この小説はそのことを特に意識した作品になりました。それは、被災者ではない私が震災を題材にし、それも一人称で書いたからです。

あまりに自己言及的でアイロニーに満ちた発言としても読み取れる。

しかし、メタ的であるこの小説と発言は、いわゆる純文学というものを徹底化したうえで脱構築して粉砕する純文学批判的なものであった。

言いかえると、アイロニカルなこのモティーフの選択や小説の構築手法は既存の文学を批判的に描くためのものだったとしか結果的に思えない。

かつてサルトルは『文学とは何か』において現実社会における作家の役割を批判した。
だが、時は経ち、かつて以上に現実に対する文学の役割は大きく低下している。

かつての「文学-批評-哲学」の業界は、今では「ブロガー-広告-自己啓発」にその役割を取って代わられた。

現在ではひとびとは本よりはインターネット上の記事を流し読みするような状況である。
しかし、文学はその流れに適応できているとは考えられない。
いわゆる純文学的なものは現実から乖離している。

そんな状況の中で現れたのが本作である。
いわゆる「文学」がインターネット上で議論され、群像2018年6月号は高騰し1万円に近い価格で取引され、芥川賞は受賞作が決まる前から大きな話題を呼んでいる。
このような状況は、ほとんどありえないものではないだろうか。

あらためて社会の中で「文学とは何か」ということが問われている。

投稿者プロフィール

CoMA
CoMA
シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。

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