Urban Liberal Arts & Post-Truth Stories for the People

平成の終わりという時代に『半分、青い。』を観る。

先輩から4月クールのドラマ評が届いて、ようやく文化的な生活があったことを思い出した。
ただ、4月期ドラマは稀にみる不作だった。数作を除いてはほぼ惰性で見てしまっていた。

そんな中『半分、青い。』は異色すぎると言ってもいいほどの独自路線を貫いてる。
特にここ1ヶ月の展開は目が離せない。主人公の鈴愛が性別や家などの外的要因が絡む問題からではなく、自ら選んだフリーランスの仕事で行き詰まる様を容赦なく描く。

あれは恐らくすべての創作する者の恐怖に通ずる。先日言及した今年の群像新人賞の盗用疑惑の話題とも時期的に重なり、生みの苦しみがリアルに伝わってくる。
『半分、青い。』については、平成史という着眼が一つ重要な要素になってくる。先輩が『半分、青い。』の感想に『20センチュリー・ウーマン』との類似性を指摘していたのだか、僕も本作は鈴愛の生を通じて平成を描くというのは北川悦吏子の一つの狙いであると思っている。
律が鈴愛にプロポーズしたのが95年(あのさりげない告白と重なる当時の日本)でそこから時は流れ99年に鈴愛は「私は28歳になって何もない」と失意のどん底に落ちる。

そして今日は仙吉が『あの素晴らしい愛をもう一度』を鈴愛に贈る。
朝ドラは前時代の呪縛に囚われる人物の存在を通じて歴史の暗い部分を表現することは往々にあるが(最近だと「ひょっこ」の峯田がそう)、今回は仙吉がその役であり、時代を示す指標にもなっている。

鈴愛の「28歳になって何もない」という言葉や「あの素晴らしい愛をもう一度」が口ずさめることなど、しっかり見ると99年をリアルに描けているんだが、どうしても物語の中から時代が立ちのぼってきにくいのは少し残念に思う。油断してると普通に平成30年の話として見れてしまう。

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