映画『少女邂逅』を観る。

いじめをきっかけに声が出なくなった小原ミユリ(保紫萌香)。自己主張もできず、周囲にSOSを発信するためのリストカットをする勇気もない。そんなミユリの唯一の友達は、山の中で拾った蚕。ミユリは蚕に「紬(ツムギ)」と名付け、こっそり大切に飼っていた。「君は、私が困っていたら助けてくれるよね、ツムギ」この窮屈で息が詰まるような現実から、いつか誰かがやってきて救い出してくれる──とミユリはいつも願っていた。

ある日、いじめっ子の清水に蚕の存在がバレ、捨てられてしまう。唯一の友達を失ったミユリは絶望する。
その次の日、ミユリの通う学校に「富田紬(つむぎ)」という少女(モトーラ世理奈)が転校してくる───。

映画『少女邂逅』公式サイトより http://kaikogirl.com/


映画『少女邂逅』。すごく良かった。これは間違いなく傑作だ。
イノセント&フラジャイルなティーン・エイジャを描いた作品として、目がくらみ意識が遠のくような作品であった。

手取りやiPhoneでの撮影による映像や視点、光や色の美しさ、夢と現実のあいだをゆききするようなマジックリアリズムのような世界観とそれを強化する音響効果。すべてがとても良かった。

この作品を見るきっかけは偶然予告編を目にしたことだった。この風景はどこかで見たような、高崎の感じがすると思って見たのが、きっかけだった。やはり舞台は高崎中心だった。枝優花監督が高崎出身ということだった。
だが、結果的にいえば、地元補正はゼロで完璧な作品だった。ぼくが見た新宿武蔵野館での上映後には、枝優花監督と出演者の秋葉美希さんと土山茜さんのトークイベントがあった。監督は驚くくらい若い女の子で、パルプフィクションのTシャツがよく似合っている雰囲気だった。

久しく映画のパンフレットを買うことはなかったが、上映後あまりの鮮烈さに劇場のロビーでパンフレットを購入した。
枝優花監督の経歴を見ると、『オーバー・フェンス』の特典映像撮影編集だという記載があった。
『オーバー・フェンス』は、ぼくにとって特別な作品のひとつで、数年前に見てかなり救われたところがあった映画だった。
出演していた俳優の松澤匠さんも『少女邂逅』でも『オーバー・フェンス』でも両作で良い演技をしていた。

ふつう、高校生の不安定なところを描く作品であれば、過剰な事件の連続とエゴのぶつかり合いを想定する。
だが、本作はそうではなかった。精神科医で批評家の斎藤環は、境界例的「分裂」から多重人格的「解離」へという時代精神の変化を表現するが、本作のティーン・エイジャのフラジャイルさも分裂的ではなく、むしろ、解離的であった。解離的な精神状態、そのとき、人にとっては存在論的なテーマが切実に重要なものとなる。

本作では、自分の価値や人生の意味を見失ったふたりの邂逅とそれがふたりの人生を左右するものであったことが描かれていた。
そしてその邂逅は周囲の人間のこころにも少なからず影響を与えるものであった。

本作のモティーフである蚕。ふつう、蚕をモティーフとして扱うのならば、喪失とか損壊からの修復のモティーフとして利用されるというのが一般的であるだろう。たとえば、村上春樹の『1Q84』などのように。
だが、本作では、そうではなくむしろ社会・システムの嘘や欺瞞、他方で生の不条理、そして少女たちの人生を疎外し暴力的に搾取する現実を描くものとして蚕をモティーフとしていた。たしかに、製糸場は女子の人生を簒奪し、蚕の命を略奪し蹂躙するものであった。
そのような現実の中で、現実から目をそらして直視せずに思考停止してシステムの中でいきる多くのひとびと、そしてそうではなくもがき苦しみながら生の意味を獲得しようというふたり。

しかし、結局のところ富田紬(モトーラ世理奈)は、自分の生の物語を紡ぐことはできず、価値を見出せなくなり損なわれてしまう。
一方で、小原ミユリも自身の生の意味を獲得し、価値を感じられれようになったわけではない。彼女はある意味では富田紬を搾取してしまった。邂逅の中で、彼女のイメージを神さまのようなものとして描き、そのすべてを受容することができなかったのだから。
彼女はたしかに疎外された状態、システムの外から、中にうまく入り込んだ。しかし、それだけだ。であるのならば、それから、以後、どうだい?と想像せざるを得ない。

本作については、岩井俊二監督に影響されたところが大きいとの声が聞こえるが、ぼく自身は『FRIED DRAGON FISH』をむかし見たくらいでまったく岩井監督の作品を見たことがなかったのだが、この作品を見て翻って岩井監督の作品を観ようと感じた。別の話ではあるが、最近、中国人の女の子から「岩井俊二の『Love Letter』を見て日本に来ようと決めた」という話を聞いたというのもあるのだが。
しかし、中国では村上春樹と岩井俊二は同じような受容のされ方をしているという話も聞く。ある意味では、サリンジャー的 – 村上春樹的 – 岩井俊二的というのは、ひとつの流れなのかもしれない。
ぼくが『サリンジャー的、サルトル的』などと言って、言いたいこともそこにあるのではないか。
あるいは、『オーバー・フェンス』と『少女邂逅』にすごい近いところのことのような気がしている。あるいは山田かまち的か。

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CoMA
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シミュラークルあるいはシュミラークル。ポスト・トゥルース的、何ものでもない何か。
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