映画『きみの鳥はうたえる』を観る。

「きみの鳥はうたえる」を見た。
素晴らしかった。良い映画を観れたという実感が強く残った。

主人公である“僕”のバランス感覚に好感を抱いた。純文学作品の映像化となると、主人公の偏屈さだったり欠損(その痛さこそがチャームでもあるが)がどうしても目立ちがちだが、本作の“僕”にはそれがあまりみられないような気がした。

行動の動機や生活における力の配分、人との接し方など、とてもバランス感覚に優れている。だからこそ彼を含む佐知子と静雄との関係は永遠に続くはずだったし、彼が最も望んでいたことがそれだったのは冒頭のモノローグからも自明である。

ただ、そんな事はあるはずもなく、この物語でも“僕”の感覚ではどうにもできないところからバランスが崩れていく。顕著な例が森口というバイト先の人物。彼の致命的なバランス感覚の無さに僕は居ても立っても居られず鉄槌を下す。思えばあの場面から少しずつ雲行きが怪しくなっていった。

永遠に続くように思えた飲んだり遊んだりの毎日は、不安の裏返しだろう。振り返った時にそう思えるのは何ら問題がない。問題なのは、その瞬間に不安を感じていることだと思う。少なからず“僕”にはそれが無かったと思いたい。佐知子や静雄には、店長や森口や静雄の母には恐らく不安があった。

不安は日常のバランスを揺るがす。揺らいだ日常は、かつてのものではない。佐知子と静雄の関係の変化はその顕れだろう。その変化に気づいた“僕”も少しずつ変化していく。嫉妬もそうだ。静雄の母とのことをあのように佐知子と静雄に伝えたのは、“僕”のバランスが少しずつ崩れている証左だろう。

そして最後のシーン。もう戻れないところまでバランスを崩した“僕”は120を待つことができず13で走り出す。佐知子のこの上ない表情で物語は閉じられ、結末は観客に委ねられる。ただ、あのいつまでも続くと思われた夏がはっきりと終わったという事だけは明らかだ。

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